連載 椹木野衣 美術と時評:4

美術史概念から単独者へと

−−『躍動する魂のきらめき—日本の表現主義』展を見て


『躍動する魂のきらめき—日本の表現主義』展会場風景 2009年
写真提供:松戸市博物館

話題の展覧会『躍動する魂のきらめき—日本の表現主義』をやっと見ることができた。昨年来の評判からすると後れをとってしまった感は免れない。巡回会場の松戸市博物館に足を運ぶのは初めてで、都心からのアクセスがよいとは言えないし、会場も美術館に比べると見劣りするのは仕方がない。が、多岐にわたる出品作は絵画・彫刻はもちろん、工芸、デザイン、写真、建築、音楽に至るまで非常に密度が高く見応えあるもので、ひさびさに論評しがいのある展覧会にめぐりあった気がする。図録も素晴らしく、日本では図版集に申し訳程度の巻頭言が寄せられた代物をよく目にするが、比較にならない。後続にとっても貴重な指標となるだろう。
 
展覧会の大勢は、20世紀初頭の西欧での「表現主義」の影響を受けつつも、日本では極東での模倣に留まらぬ独自の深化を見せ、広くジャンルを横断する動向として存在したという仮説に基づいている。その「きらめき」を象徴するのが、美術史的にはいささか聞き慣れぬ「生命主義」という語だ。
 
が、少々意表をつかれたことに、大部な図録を読んでも、詳細な解説群にもかかわらず、この概念について明快な説明に出会うことはなかった。大枠としては、1900年代になって近代化が達成されたあと、日本が大きな時代の転換点を迎えたとき、「かれらが自己の内面表現に精神的な基盤を置く必要を強く意識し、またさらにこれこそが新時代を拓くロゴスなのだと感じていたことが着目すべき」(31頁)とされている。しかし、それだけでは日本の表現主義がなぜ生命主義という一種のスピリチュアリズムに変貌を遂げて行ったのか、その説明にはなっていない。

実は、本展で見られた数多くの展示作品を見ていて強く感じたのは、はたしてこれらを「日本の表現主義」と括ることは適切なのだろうか、という疑問である。たしかに明治初頭に導入された写実主義と比べたとき、これらの動向が広い意味で個の内面に由来する主観的表現を扱っているとは言えるかもしれない。けれども、この展覧会の総体から受ける印象は、西欧で言うところの表現主義とは随分と異質なものである。つまり、この展覧会で見るべきはその異質性(であり切断面)の方であり、だからこそ、それを生命主義という独自概念で包摂しようという動機付けも成り立っているはずだ。が、そもそも「生命」とはいったい何なのか。

もともとこの生命主義という概念は、日本の近代文学研究者である鈴木貞美が、「大正生命主義」という括りのもと、北村透谷の「内部生命」論などに端を発する、この時期に特有な思潮の動きを包括的に捉えようとしたことで知られるようになった。が、反面、生命主義とはすべてを包摂しうる概念としてのその容量の大きさゆえに、全体主義的な危うさと表裏一体をなし、1930年代になると急速に超国家主義へと回収されていく。その意味では「日本の表現主義」には、展覧会のエピローグで語られるような、「昭和から戦争へと向かう局面のなかで圧殺され、排除され、追いやられていった」側面があるにしても、最初からそうした超国家主義と親和するものを備えていたとも考えられる。
 
はっきりしているのは、生命という語自体が、この点で最初から大きな困難を抱えているということだろう。最先端の生物学の知見ですら、その定義は容易なことではない。そもそも生命が実体としてあるのかないのか、そのこと自体、大きく議論が分かれている。したがって、少なくともわれわれは、いかに生命が躍動的に描かれているように見えたとしても、それを「生命の表現」として捉えるべきではない。そうではなく、問われるべきは、生命のあるなしにかかわらず、「そこに生命が生き生きと描かれているように感じることができるのはなぜなのか」という、筆記(エクリチュール)の問題なのだ。

日本の表現主義の問題を、「生命」や「躍動」ではなく「筆記」の問題に引きつけるならば、この難問に光を当てるいくつかの糸口はある。たとえば小説家の水村美苗は、1907年に夏目漱石が、大学をやめることで初めて本格的小説家たりえたことに着目して、この時期に小説家(表現者)となるためには、翻訳機関としての大学を辞める必然があったと指摘する(『日本語が亡びるとき』)。が、それはよくある自立の問題ではない。構造的な問題だと言うのだ。つまり、明治初頭での近代化の渦中では、大学とはすべからく(西欧の知恵と技を日本語に置き換えるための)「翻訳」機関なのだから、そのような場所にいるかぎり個としての表現はありえない。漱石にかかわらず、すべての人は、表現者になるためには、必然的に官から野へと下るしかなかったのだ。
 
このように考えるなら、美術の世界でも同じ頃、同様のことが起こっていたことに思い当たる。明治初頭で名をなした画家たちは、黒田清輝にせよ浅井忠にせよ、たしかに西欧の絵画思潮を日本に伝える、その意味では翻訳者でしかなかった。文部省美術展覧会(=文展)はその延長線上にある。それは、いわば国家の運営による大規模な絵画の翻訳家育成所なのだ。そうすると、本展でもひとつの起点とされている「ヒュウザン会」(後に「フュウザン会」と改称)も、漱石と同様、明治40年(漱石が大学を辞めたのと同じ1907年)の文展創設に対する在野的隔絶から出発することで、あのように自由な主観表現を得る(「気運」だけではなく)「必然」があったとは考えられないか。むろん、それは生命の仕業ではない。「日本の表現主義」と呼ばれる動きは、日本の画家たちが初めて官製の絵画翻訳家ではなく、官ならぬ自己にしか根拠を置かない単独者−−それこそが表現者ではないのか−−たりえたことを意味する。だからこそ、翻訳や国是から自由となった彼らの筆記は(そこに生命が宿っているかどうかとは関係なく)、あれほどまでに自由に「躍動」できた(=するしかなかった)のではなかったか。それが、彼らの筆記が結果的に表現主義的に見えてしまう内発の理由なのであって、それは西欧の基準に充てたときの「日本の表現主義」とはやはり違うのではないか。そのように見えてしまうのは、彼らがあくまで自己(の内面世界)のほかに信奉する何ものかも持たなかったからであって、その意味では彼らは必ずしも<主義者>ではなかったはずだ。

そう考えたとき、この時期、同様に<表現者>となった<単独者>らが、しばしば天と地が直接媒介するような神秘体験を有し、単独行動者たるアナーキスト(大杉栄、辻潤ら*)とも深く関わり、場合によってはテロリスト(難波大助、古田大次郎ら)にすらなったことも納得が行くのである。そして、この単独者=表現者の系譜は、後に五・一五事件で政財界の要人を次々に暗殺するに及んだ血盟団の組織者にして日蓮宗の帰依者、井上日召(一殺多生)にいたって、明確に日本主義へと反転するのである。実際、ここでは「国家」と「日本」、「一殺」と「多生」がそれぞれ対比的に配置されている。国家という中枢に巣くう「一」を排することで国体の改造をなし、そのことで「多」がよりよく生きうるとするのも、一種の生命信仰の変形とはいえないか。

本展で展示された諸作を美術史に偏る「表現主義」と括ることは、これらの大きな切断(不連続、反転)を見えにくくしてしまう。あえていえば、本展を飾るこれらの諸作を「日本の表現主義」ではなく、「日本における<表現者>の誕生」と看做すことはできないか。
 
* 辻は点ふたつのしんにょう

『躍動する魂のきらめき—日本の表現主義』 展(2009年4月26日〜2010年1月24日)
http://event.yomiuri.co.jp/jaam/shows/s_067.cfm

連載 椹木野衣 美術と時評 目次
第3回 ‘文化’資源としての〈外地〉——豊田市美のアジア展
第2回 文化行政の「事業仕分け」について
第1回 大竹伸朗の現在はどこにあるのか

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