連載 田中功起 質問する 11-5:星野太さんへ3

第11回(ゲスト:星野太)——参加が目指すところはいったいどこなのだろうか

美学/表象文化論の星野太さんと「参加」を考える今回。主体の選択に先立つ「原−参加」の強制性を語る星野さんに、田中さんは作家、観客双方の立場から応答します。

往復書簡 田中功起 目次

件名:許されざる者としての枠の設定者

星野太さま

お返事ありがとうございます。
ここ数ヶ月、川崎、京都、ベルリン、広州と移動をしつつ、やっとロサンゼルスに戻ってきました。自宅に帰ってくるととても静かで、時間が止まっているような錯覚に陥ります。このまま何もかも忘れてその時間のくぼみの中に身を寄せていたい、と思うときもあります。


藤本壮介さんによるビタミン・クリエティブ・スペースの新しい場所「Mirrored Gardens」。展示スペースもあるけど、菜園やお茶を飲むスペースもある。

「参加」とはそもそも暴力である

星野さんからの返信をくり返し読みながら、「『参加』とは心の底から無縁でありたいと願う人々」について考えています。まずは星野さんから出された主体の位置の問題を手がかりに、「原 – 参加」の暴力を整理してみます。ぼくたちは呼びかけに実際に答える前に、そもそもその呼びかけによって、その「質問」に巻き込まれる状態に置かれることで「参加」の経験に先立つ、「原 – 参加」に強制的に参加させられてしまっている。この状態を「原 – 参加」と星野さんは呼びました。

この「原 – 参加」においては、ぼくが前回の手紙に書いたような、「参加しない」という拒否を示すことができません。呼びかけに対してはそれを断ることもできるでしょう。ぼくはそれによって「参加」に平等な立場から反応し、拒否や失敗に導くことが観客にとっては可能だと書いていたわけでした。しかしその「呼びかけに対する反応」や気づきも「参加」のひとつととらえるならば、そこからは原理的に逃れえません。最初に設定された「呼びかけ」による枠を観客はこのとき無効にはできない。例えばそれは自分が生まれた場所が、ひとつの国家によってあらかじめ占有されている状態に似ています。ぼくたちは選挙権を持って国の政治に参加する手前で、その国という枠にあらかじめ「参加」させられてしまっているのですから。

ぼくはこの問題をずっと「呼びかけられた」参加者の側、観客の立場に立って考えています。星野さんは展覧会の告知をめぐる問いの中で、告知に反応したことを(不参加でさえも)観客が「参加」のかたちのひとつとすることで、展覧会を見にいかなかった自身の「怠慢」の言い訳にできる、と書いています。もちろんその通りだと思います。しかし「原 – 参加」の創設(参加の暴力)をめぐる問題はあくまでも参加の呼びかけを行う側によって強制/暴力となるので、観客による「原 – 参加」の創設(参加の怠慢)は別に考えるべきだと思われます。暴力はつねに呼びかける人から呼びかけられる人へと非対称に行われます。というわけで以下のように整理されるでしょう。

A質問するひと/枠を設定するひと/参加の呼びかけ/ステージを設定する
・「不参加」という反応さえも「参加」であると呼ぶ(「原 – 参加」の創設)→ Bへの参加の強制/暴力となりうる。つまりすべての反応を参加と呼ぶ。

B質問に答えるひと/枠に巻き込まれるひと/参加を呼びかけられる/ステージに上げられる
・質問に答えないという「不参加」を示すことができる。しかしAによる「原 – 参加」の創設によって、「不参加」でさえ「参加」とさせられてしまう。「参加」と無縁ではありえない状態。

もちろんここでぼくはAの場所にいるのですが、Bの場所を考えているわけです。ここで二つのことが考えられます。Aの場所をさらに覆う別の枠があります。Aが参加させられている場所と書いてもいいかもしれませんが、つまりAがいやおうなく巻き込まれている制度です。学生時代の素朴な話をすれば、キャンバスの矩形が与えられたものだということに疑問を持ったとき、その変形やレリーフ、立体化を考えたことがあります。しかしそれは美術史の中ですでにたくさんの試みがなされたものでした。このときのぼくの関心は、「イーゼル絵画」の歴史に含まれていて、その上で「ミニマル・アート」の問題解決方法の枠の中にいます。そうした美術史的な見方を逃れて「純粋」に作品を「衝動的」に作ることも可能かもしれません。しかし、制度は、そもそも「原 – 参加」的です。それが「作ること」に関係しているかぎり、ぼくたち作り手はもはやその枠の外に出ることはできません。制度に反対することも、制度を無視することも、いわば織り込み済みなわけで、むしろ制度と交渉しつつ、自身の場所を確保しなければならない。これは非常に居心地が悪いことです。

もうひとつは先に別の問題と書いたBの立場からの「怠慢」を、むしろ制度をはぐらかすための戦術ととらえることです。枠の設定や呼びかけを、聞いているふりをしながら、そこに含まれながら、てきとうにする態度。それはしかし反知性主義と紙一重かもしれませんし、もちろんアーティストの「怠慢」となる最悪の対処かもしれません。

いずれにしても「参加」は根源的に居心地が悪い。
学校行事の例もそうですが、大人になっても、社会生活、他者との関係を円滑に進めるために、さまざまな「参加」に巻き込まれます。だからぼくたちは、どこかでそれを主体的な「参加」へと変換することで、参加の中に楽しみや能動的なものを見つけようとするのかもしれません。しかし子どものときはその社交的判断ができないため、居心地の悪さを抱えたまま参加することになる。
ただ、これがより大きな問題と直結するとき、ぼくたちはより途方に暮れるかもしれない。例えば国が戦争状態になったときに、国民はいやおうなくそれに「参加」させられてしまう。そこでは反対する、賛成する手前で、ぼくたちはその問題に巻き込まれ「原 – 参加」の状態におかれる。無視できないわけです。

失敗するのはアーティストのほう

ここまでは「枠に巻き込まれるひと/観客」の立場を問題としてきましたが、「失敗」をめぐる問いは「枠を設定するひと/アーティスト」の問題だと思うのです。
参加におけるアーティストの「失敗」を考えるとき、例えば300人の参加者が必要であるという枠に対して、その人数が集まらなければ「失敗」であるということができます。しかし、アーティストがこの参加を「原 – 参加」として設定する場合には「失敗」がありえない。例えば同じように参加者を集めようとしたとして、呼びかけに対する気づきと反応(無視も含めて)だけでもよいとすれば、数は問題ではなくなる。人数が集まらなくても「失敗」ではないからです。このときすべての可能性が言ってみれば「成功」であるわけで、「原 – 参加」という設定をすれば、成功/失敗という相対的な価値判断は無効化してしまいます。

だから「原 – 参加」には、星野さんのいう「ラディカルな失敗」しかない。枠そのものが崩壊すること。あるいは枠が変更されてしまうということ。つまり「原 – 参加」そのものが無効になること。しかし、これは「観客」によっては生じさせることができません。星野さんが例として書いているように、アーティストがアーティストであることをプロジェクトの過程でやめてしまう、というようなことでしか、枠組みが変更されることはありません。あるいは、ほとんどレトリック的に書きますが、「原 – 参加」にむしろ価値判断を持ち込み、その判断を「枠に巻き込まれるひと/観客」にゆだねるということもありえるかもしれません。「枠を設定するひと/アーティスト」であることをやめ「枠に巻き込まれるひと/観客」になる(それはほとんどアーティストをやめることに等しいですね)。

「参加」の前提を確認した上で

「参加」の「暴力」と居心地の悪さ、主体の位置、「原 – 参加」と「ラディカルな失敗」=アーティストをやめること、こうして「参加」をめぐる問いは枠組みそのものを無効にする方向に進んでいるようです。

それでもぼくは「参加」をひとつの方法論であると見なしています。今回辿っている道筋をむしろ方法論として自覚的に辿ることもできます。例えば、「参加」における成功/失敗の価値判断を解き放すため、まずは「原 – 参加」を導入する。これによってアーティストはいかなる結果をも受け入れる。アーティストがそれを受け入れるかぎり、強力な枠組みとしてすべては含み込まれる。その枠組みは参加者にとって、ときに居心地が悪いかもしれないけれども(そこにアーティストの「暴力」を自覚するかもしれない)、非日常的な現場の中でいつもとは違う感覚に満たされるかもしれない(星野さんは「心をくすぐるような快感と不快感」と書いていますね)。その両義的な感覚に巻き込まれた、その場に居合わせる人々、アーティストも含む参加者たちは、そこで何を経験するのでしょうか。こう言ってよければこの「危険」な状況は、何を作り出し、何を意味するのでしょうか。ぼくはそこにアーティストの倫理があるとすれば、それは美術がずっと中心的な課題としてきた造形に対する責任のようなものじゃないかなと思うのです。

考えつづけています。もうしばらくお付き合いください。

田中功起
2015年5月 ロサンゼルス

近況:ドイツ銀行クンストハレでも個展『A Vulnerable Narrator』(脆弱なナレーター)に合わせて、カタログが出ています。1998年(学生時代)から2015年までのプロジェクトの写真、新たに書き下ろしたものも含む個別のアーティスツ・ノートも収録されています。
Koki Tanaka Precarious Practice | Hatje Cantz

【今回の往復書簡ゲスト】
ほしの・ふとし(美学/表象文化論)
1983年生まれ。共著に『人文学と制度』(西山雄二編、未來社、2013年)など。現代美術に関わる著作に『奥村雄樹――ジュン・ヤン』(美学出版、2013年)、「Relational Aesthetics and After|ブリオー×ランシエール論争を読む」を寄せた共著『コンテンポラリー・アート・セオリー』(筒井宏樹編、EOS ArtBooks、2013年)、『拡張される網膜』(編著、BAMBA BOOKS、2012年)などがある。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」特任助教、慶應義塾大学文学部非常勤講師も務める。
http://starfield.petit.cc/

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