連載 田中功起 質問する 13-4:菅原伸也さんから2

第13回(ゲスト:菅原伸也)――現在の日本で共同体を再考することについて

菅原伸也さんとの往復書簡。菅原さんの第二信は、普遍性や個別性のみに依らない共同体の可能性を示唆し、その視点から田中さんの水戸の個展を考えます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:共同体と社会

田中功起さま

ご返信ありがとうございます。
前回田中さんが冒頭で触れていたように、イギリスは国民投票の結果EUから離脱することが決定しました。それを受けて、残留派であったデービッド・キャメロンは辞任し、テリーザ・メイが新しい首相に就任しました。メイ新首相はイギリス史上二人目の女性首相となりましたが、もちろん一人目はマーガレット・サッチャーであり、何かとサッチャーと比較されることも多いようです。

リバプール・ビエンナーレはどうやら拝見することができなさそうでとても残念なのですが、そこに出品されている田中さんの新作で扱われているYTS(ユース・トレーニング・スキーム)はまさにサッチャー政権において導入が強行されようとしたものです。YTSを初めとしてサッチャー政権によって繰り出された様々なネオリベラルな政策が現在の状況を生み出す端緒となったものであり、いろいろな差異はありつつもYTSを廻る状況は現在と似ていると言うことができるでしょう(むしろ状況は悪化していると言うべきかもしれません)。田中さんが31年後の2016年にあえてYTSを自らの作品に取り上げたのはおそらくノスタルジーからというよりもまさに現在との類似性にこそあるはずですし、現代の眼から31年前のYTSが俄にアクチュアルなものに見えてきたからなのだろうと理解しています。


2008年オリンピックを大阪に

「社会といったものはない」

田中さんからの前回の返信で、「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」に関する言及がありました。言うまでもなくこの二つの概念はもともとフェルディナンド・テンニースによる130年ほど前の議論から来ています。テンニースの著作『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』は英訳本ではタイトルが“Community and Society”となっており、「ゲマインシャフト」を「共同体」、「ゲゼルシャフト」を「社会」と考えることは可能でしょう。

では、田中さんのプロジェクトにおいて目指されていた「共同体」とは「ゲゼルシャフト」としての「社会」なのでしょうか? ここで興味深いのは、「社会といったものはない」(*1)と述べて社会の存在を真っ向から否定したのが他でもないサッチャーであったということです。YTSも含めてサッチャー政権によって繰り出された様々なネオリベラルな政策は、彼女にとって本来存在しないはずの「社会」を破壊していくためのものでもあったと言ってよいでしょう。

もしサッチャーにとって「社会」が存在しないのであるのなら、そこに残るのは一体何なのでしょうか? サッチャーは続けてこう述べています。「あるのは個人としての男と女と家族です。」この言葉が示しているのは、「自助努力」「自己責任」「起業家精神」を称揚し「社会」を個人化しようとする、サッチャーのネオリベラルな意志です。「社会といったものはない」という発言は当時の現状を表したものというより、むしろそれ自体が一定の効果を発揮するパフォーマティヴな発言だと理解すべきでしょう。

「社会的なもの」の衰退

主にフランスで盛んに議論が行われているようですが、「社会的なもの」という概念は社会保険システムと密接に関連を持っているとされています(*2)。社会保険は、資本主義の発展に伴い生まれる、労災や失業といったリスクを個人に負わせるのではなく、その社会的な偶然性をふまえた上でリスクを集合化し社会的に共有しようとするものです。つまり、たまたま労働において怪我を負ってしまったり失業してしまったりした人々を、社会の成員全体によって救済するためのシステムです。そこでは社会的連帯の思想が養われ、同じ社会を共有しているという意識、同じ一つの社会の同質的な成員であるという意識が潜在的にであれ存在しているわけです。

しかし1970年代以降、資本主義の構造の変化(フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行、グローバリゼーションの進展)もあり、社会国家もしくは福祉国家が経済的に成立しにくくなり、さらにその変化を後押ししようとするかのようにサッチャーやレーガンなどによってネオリベラルな政策が押し進められていきました。そして現代では社会は様々な形で分断され(格差拡大、ネオリベラルな個人化、多文化主義など)社会的連帯の思想も成立しなくなり、もはや我々が同じ社会を共有しているという感覚や社会的連帯はほとんど消失しているのではないでしょうか?(*3)(例えば、生活保護受給者バッシングもこうした社会的連帯の喪失、リスクの個人化と関連しているでしょう。)「社会といったものはない」と述べたサッチャーによる30年ほど前のYTSは、「社会的なもの」が衰退した現代と地続きであるのに対して、新しく「社会的なもの」が勃興しつつあった19世紀後半のテンニースの議論はもはやそうではないだろうと僕は考えています。

コミュニティの再評価

そうした社会の分断・個人化やそれを引き起こした要因のひとつである全面的な市場化こそが、現代における、コミュニティへの希求を反動的に引き起こしていると言えるでしょう。社会が様々に引き裂かれ、分断された個同士も交通を遮断されている状態において、コミュニティという存在が想像させる、精神的・直接的(無媒介的)つながりが強く追い求められるわけです。そして前回の僕の返信のなかで、いわゆる「地域アート」や「コミュニティ・デザイン」は街おこしや地域活性化のためにその地域の住民を「能動的に」参加させるための装置となっていると述べましたが、それだけでなくそうした目的を達成するためにコミュニティを通して精神的・直接的なつながりを求める人々の気持ちを巧みに流用しているとも言えるでしょう(*4)。さらに、コミュニタリアニズムとネオリベラリズムは相反する考え方のように思えますが、実は「第三の道」政策において両者のあいだには密かな共謀があるという指摘もあります(*5)

共同体はどこにあるのか?

しかし、我々がこの往復書簡でテーマとしている「共同体」とは、「社会的なもの」の衰退やグローバリゼーションに対して反動的に現れる、そうした直接的・具体的なつながりとしての「コミュニティ」でしかないのでしょうか? ここでようやく、先日終了した田中さんの水戸の個展について検討する用意が整いました。僕があの個展において共同体の存在を感じさせられたのは展覧会の会場でした。つまり、(後でひっくり返す前提で言いますが)もし田中さんの個展において共同体が成立していたとするなら、何よりもそれは合宿の現場というより展覧会会場であったのではないかということです。合宿との大きな違いはまず観客の存在があるということです。合宿という隔離された場所では同一の時間と空間を共有しているという意識がどうしても強くなりがちなのに対して、展覧会の会場では、合宿の時空間を共有していない観客の別の時空間が存在しています。会場には少なくとも二つの時空間が切り離された上で共存しているわけです(*6)。さらに展示空間内には、主に女性が活躍した様々な社会運動に対する言及が白い布に記載された形で展示されています。それらの社会運動は現代のものだけでなくそれなりに時間を遡る過去のものもあり、「fig.1」の平塚らいてうのようにこの世にもはや存在しない死者たちもそれらの運動には多く含まれています。したがって、展示空間には、映像のなかにいる合宿の参加者、観客、さらに社会運動に関わった人々(死者も含む)が「共にいる」わけです。

Fictive Community

田中さんの水戸の個展に対する受容や反応について僕が不満に思っていたのは、そこで言及されるのが、実際の時系列的にはほぼ最後に行われた参加者間のディスカッション映像ばかりであったということです。確かにあの映像は合宿のフィナーレを飾るような印象的なものでありましたが、そればかりが注目されているため、先ほど触れたような社会運動の布や観客の存在、会場に置かれたいろいろな物、さらには他にもある映像が忘却されてしまっている印象がありました。それは実際には様々な時間と空間を孕み込む展示を、合宿という一つの時空間へと圧縮してしまう解釈的パフォーマンスであると言えるでしょう。そのことは、前回田中さんが違和感を表明していた「6日間という期間の短さへの批判」ともつながっていると思います。つまり、ディスカッション映像ばかりに着目するならば、結局共同体なんてできなかったではないか、期間が短すぎたのではないか、といった主に方法論的な批判に陥ってしまいがちなのです。

したがって、僕の印象としては田中さんの考える共同体とは必ずしも実体的なものではないのではないか、もしくは実体的なものと捉えない方がよいのではないかと思っていました。そこで興味深いのは、前回の返信で田中さんがスーチャン・キノシタさんから示唆を受けたという「フィクショナルな共同体」という概念です。スーチャンさんが仰ったように、田中さんにとって合宿という場所において実体的な「新しい共同体」を作ることが決して課題であったわけではない。それでは結局世の中に多く存在しているコミュニティやグループにもうひとつ新しいものが加わることでしかないのです。

類似性を基にした共同体

では、田中さんの個展会場にあった共同体とはいったいどのようなものなのか? ここでジョルジョ・アガンベンの『到来する共同体』を参照してみることにしましょう。アガンベンは「ディム・ストッキング」という章のなかで、「人間の肉体はもはや神にも動物にも似ていなくて、他の人間の肉体に似ている」(*7)と述べています。キリスト教の伝統においては、人間は神というひとつの元型に基づいて形作られたとされます。すなわち、すべての人間には神という元型が存在していて、それが人間の形姿を「あるひとつの目に見えない元型に縛りつけて」(*8)いるわけです。それに対してここでアガンベンが言っているのは「元型のない類似性」のことです(「なんであれかまわないものは元型のない類似性、つまりは〈イデア〉なのだ」(*9))。共通する元型もなしに、そして個々が完全に特殊で他と全く関係性を持たないといったような個別的なものでもなく、人間は他の人間にただ似ているだけなのです。つまり、それは普遍性にも個別性にも基づかない共同体のあり方です。

この「類似性」という観点から水戸の個展会場について考察してみることにしましょう。まず様々な社会運動が布に記載されて提示されていること、それはそれらの社会運動(の参加者)と観客や合宿(参加者)との類似性について考えさせるものであるでしょう。すなわち、観客や合宿参加者が存在している現在の状況と社会運動とが全く無縁のものではなく似ているのではないかという視点を可能にし、合宿で行われていることと社会運動の類似性にも想いを誘うことでしょう。それだけでなく、時空間の差異は存在しつつも合宿参加者と観客との間にも類似性を見て取ることはできますし、会場に置かれた、合宿で使われた様々なものは、合宿参加者と観客とを関連づけ互いの類似性という観点から思考することを可能にする「のり代」のような役割を果たしていると考えることができます。要するに、展示会場内における共同体において、ただ無関係にバラバラに存在しているのではなく、差異を孕みつつ互いは互いに似ているのです。それは敵対でも調和でもない共同体のあり方です。

そして翻って考えてみるならば、合宿自体においても必ずしもひとつの同じ時間と空間が共有されていたとは言えないのかもしれません。前述のように、ディスカッションを映したもの以外にもいくつか映像がありました。そのなかのひとつは、ファシリテーターである狩野愛さんが社会運動それぞれについて簡潔に記述した文章を参加者ひとりひとりに読んでもらうものでした。展示会場と同じく、朗読してもらうことによって合宿という時空間とは別の社会運動の時空間が立ち現れ共存しているわけです。それによって、もしかしたら合宿参加者と社会運動が似ているのではないかという見方も生じ得るはずです。他のものを想像しながら詩を朗読するよう参加者に要請した粟田大輔さんのワークショップの映像も同様でしょう。さらに、田中さんが個展内のインタビューのなかで言及した不在の参加者の「存在」、また合宿が震災と暗黙に結ぶ関係性も、合宿それ自体がひとつの時空間のなかで完結してしまうことなく他の時空間と類似性を持つことを可能にしています。そしてそもそも合宿の参加者はそれぞれ普段生活している時空間を抱えて合宿にやって来ていたのであり、そこにはすでに様々な時空間が共存していたと言えるでしょう。

今回の返信も少し長くなってしまいましたが、「社会的なもの」の衰退に触れたあとようやく我々の往復書簡のテーマである共同体にたどり着き、アガンベンを参照しつつ類似性に基づく共同体の概念、そしてそれに関して田中さんの水戸の個展についても論じることができました。今回言及することができませんでしたが、ここで述べたことは田中さんの他の作品、例えば「不安定なタスク」についても当てはまるでしょうし、田中さんの言う「抽象」を「類似性」という観点から語ることも可能なのではないかとも思っています。

では、田中さんからの最後の返信を楽しみにしています。

菅原伸也
2016年7月 東京にて


1. Interview for Woman’s Own (“no such thing as society”), Margaret Thatcher Foundation
2. 齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年、ピエール・ロザンヴァロン『連帯の新たなる哲学――福祉国家再考』北垣徹訳、勁草書房、2006年、『現代思想』2007年9月号(特集=社会の貧困/貧困の社会)、青土社を参照。
3. 日本国内において社会的連帯の意識が例外的に成立しているのは、大きな地震による災害の際だけではないでしょうか? いつ大震災に遭遇するか分からないという「社会的偶然性」が日本に住んでいる限り誰にでも当てはまるからです。つまり、たとえ日本国内の他の場所で起こったとしてもそれは「他人事」ではなく、同じ社会を共有しているという意識が成立するほぼ唯一の契機なのです。しかし逆説的なことに、日本在住者にとって同じ社会の成員である被災者に対する同一化が非常に強いからこそ被災者に近ければ近いほど良いという意識もまた働き(たとえば被災地に足を運んだか否かやその回数が重要視される)、新たなる分断も引き起こすのです。「共同体」を新しい形で想像するならば、むしろ同一化よりも差異に基づいてこそなされるべきでしょうし、後述するようにそれらの差異の間に類似性を見る視点が重要でしょう。
4. 現代におけるコミュニティの再生については『コミュニティを再考する』(平凡社新書、2013年)を参照のこと。特に本書の第一章である齋藤純一「コミュニティ再生の両義性——その政治的文脈」が簡潔にまとまっています。
5. 渋谷望『魂の労働――ネオリベラリズムの権力論』青土社、2003年、p.50~54
6. クレア・ビショップが『人工地獄』を通して強調している「二次的観客(secondary audience)」はこのことと関連しているでしょう。
クレア・ビショップ『人工地獄——現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年
7. ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳、月曜社、2015年、p.65
8. 同書、p.64
9. 同書、p.64~65

近況:先日発売された『美術手帖』2016年8月号(7月16日発売)の「ARTIST INTERVIEW」で、現在「奥村雄樹による高橋尚愛」展を開催中の奥村雄樹さんへのインタビューの聞き手(と構成)を担当しています。あと、同じ号に、statementsで開催されていた青崎伸孝「at the moment」展のレビューも寄稿しています。よろしくお願いいたします。

【今回の往復書簡ゲスト】
すがわら・しんや(美術批評・理論)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論修士課程修了。主な論文に「百瀬文論/分裂する空間」、「高橋大輔論/絵画と絵画でないもの」(ともに「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILIー交錯する現在ー」展覧会カタログ)。最近の論考に「クロニクル、クロニクル!」展レビューがある。
http://sugawarashinya.wordpress.com

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