連載 田中功起 質問する 11-4:星野太さんから2

第11回(ゲスト:星野太)——参加が目指すところはいったいどこなのだろうか

美学/表象文化論の星野さんをゲストに迎えた今回。参加における「失敗」をも積極的に捉えようとする田中さんに、星野さんは丁寧に、しかしラディカルな思考も視野に入れつつ応答します。

往復書簡 田中功起 目次

件名:参加の始まり/失敗の終わり

田中功起さま

ご無沙汰しております。

ベルリンでの個展を控えて、お忙しくお過ごしのことと思います。こちらは先週まで東欧のブルガリアに滞在していました。実はいくつかの不思議な巡り合わせで、ここ数年、ブルガリアの研究者たちとは非常に実りのある交流を続けています。今回は同地のソフィア大学で「The Sublime and the Uncanny」という国際シンポジウムを組織するために、一週間ほどあちらにお世話になっていました。シンポジウムの成果は年内に英語で刊行される予定ですが、今はこの冬一番の大仕事を終え、春に向けて新たな仕事に着手しつつあるところです。


誰もいないソフィアの公共施設。昔、公衆浴場として使われていた建物だそうです。

参加/不参加の手前で

さて、田中さんからの第二信、にわかに興奮しながら拝読しました。先便にはいくつもの重要な論点が含まれていたと思いますが、何よりもここまでのやりとりを起点として、田中さんが「参加」という行為に見ているポジティヴな可能性をとても豊かに展開してくださったことで、ここでの対話がさらに射程の長いものになりつつあると感じています。とりわけ、田中さんが書かれていた下記の内容は、まさにこの場でわたしが考えたいと思っていたクリティカルな部分に触れてくださっていると思いました。以下、わたしにとってとりわけ重要だと思われた内容に適宜立ち戻りつつ、応答させていただきます。

たしかに、逆説的なことながら、「参加」に対する拒否や失敗にこそ、そのもっとも大きな可能性が秘められている、と言えるのかもしれません。観客が「参加する」ことを前提として設計される通常の「参加型アート」に対して、「参加しない」あるいは「参加できない」という拒否や失敗に重きを置く田中さんの近年の実践は、その意味でふだん見逃されている「参加」の本質的な側面に光を当てていると思います。いわばそこでは、「参加しない」あるいは「参加できない」という状況を設定し、まさしくその当の状況に意識を向けさせることにこそ力点が置かれているわけですね。なおかつ、同じ話題の中で指摘されていたように、ある参加への呼びかけを拒否すること、つまりその行為に積極的に「参加しない」ことも「参加する」ことと同じくらい能動的な行為である、という考え方も、とてもよくわかります。

とはいえ、実はここにもひとつの両義性があるのではないでしょうか。なるほど、ある状況や出来事に「参加しない」という判断=行為が、ある意味で「参加する」ことと同じくらい能動的なものであることは確かです。田中さんはそのような「参加しない」という積極的な反応、さらにはもっとささやかな「気にとめる」というごく微弱な反応ですら、ひとつの参加のかたちに含めたい、という。わたしの興味を引いたのは、何よりもこの部分です。なぜなら、田中さんもただしく指摘されていたように、これは見方によってはきわめて暴力的な措辞にも転じうるからです。

なぜか。そこでは、参加する/しないにかかわらず、ある告知や呼びかけがその人の意識を捉えた瞬間、そこにはすでに参加が起こっている、という理路が成立している。そうなると、ここで広義の「参加」と呼ばれているものの手前には、その告知や呼びかけがなされた段階で成立する、超越論的な――すなわち、実際の「参加/不参加」という経験につねに先立つ――何かが措定されることになるでしょう。たとえばそれを、実際の「参加」に先立つ「原−参加(archi-participation)」の創設と呼ぶことも可能かもしれません。さきほど「暴力」という言葉を使ったのは、仮にこのような理路が適用されるなら、そのような「参加」とは心の底から無縁でありたいと願う人々さえも、強制的にその「参加」の枠内に含まれることになってしまうからです。

これは言語行為論における次のような議論を想起させます。すなわち、AさんがBさんに対して「Yes/No」のいずれかで応答可能なごく単純な呼びかけを行なったとする。それに対してBさんが「Yes」と応えるとき、実はそれはすでに二度目の「Yes」に相当している。なぜならそのときBさんは、先のAさんの呼びかけに応えている時点で、すでに一度目の「Yes」を――暗黙のうちに――返しているからだ、というのがその理由です。要するに、Aさんの呼びかけにBさんが何らかの反応をした時点で、そこには一度目の「Yes」が成立している。ゆえに、たとえそこでBさんが「No」と応えたとしても、その手前にはすでにより根源的な「Yes」が前提とされている、ということですね。

さて、この議論そのものは、「Yes/No」という応答に潜むごく一般的な構造を記述したものにすぎませんから、それじたいに何か強いメッセージが含まれているわけではありません。しかし、「あなたはXXという出来事に参加しないという判断をしたが、その出来事の存在に意識を向けた時点で、あなたはそのXXにすでに参加しているのだ」というメッセージが陰に陽に伝えられるとき、それは受け手に対してどのような印象=効果(effect)をもたらすでしょうか。

以上のような事態をどのように考えるかは、究極的にはなかなか難しいところです。ありきたりな言い方ですが、その印象=効果は、その言葉を発するひとの立ち位置によっていかようにも転じうる、と言うほかないのかもしれません。これだけだと前回の結論を繰り返すだけになってしまいますが、その意味で言うと、先に田中さんが挙げられた事例が、いずれも鑑賞者の視点に立ったものであるのは興味深いと感じました。

ひとつは、提示されたインストラクション(「靴を脱いで寝転んで……」)に従わずにある作品を鑑賞した場合も、それはそれでひとつの作品体験と見なしうる、という話。もうひとつは、たとえ実際に展覧会に足を運ばなくとも、その告知を受け取った時点で、観客はそれに参加したことになるのかもしれない、という話です。いずれも面白い発想で、わたしも似たような考えを抱くことがないわけではありません。しかし、たとえば後者のような発想は、場合によっては展覧会に足を運ばない「怠慢」の正当化に用いられることも、可能性としてありえないわけではないですね。だからわたしは以上のような発想/発言の妥当性を、その発想/発言の主体(およびその発想/発言が向けられる対象)と切り離して考えることはやはりできないのではないか、と思います。これもある意味では素朴な結論ですが、「参加」の問題について厳密に考えようとするなら、以上のような前提はいくら強調してもしすぎることはないでしょう。

許容可能な/許容不可能な失敗

さて、以上の「参加」をめぐる話題に関連して、「失敗」をめぐる問題がにわかに浮上してきたように思います。そこで、先便で教えていただいたマーカス・ミーセンの『参加の悪夢』(*1)をはじめ、関連しそうな書籍をあらためて読んでみました。ひとつ前のお便りでわたしが話題にしたホワイトチャペル・ギャラリーのアンソロジーである『失敗(Failure)』も、同じ問題について考えるきっかけとして、示唆に富むもののひとつだと思います(*2)

ですが、ここでまず振り返っておくべきは、前々回のゲストである杉田敦さんと田中さんの往復書簡ですね。その最初の返信の中で杉田さんがキーワード的に提出している「最終的に成功に奉仕することのない失敗」――これについて考えることが、さしあたり重要な問題なのではないかと考えています。

わたしの基本的な考えは、杉田さんのそれとさほど隔たっていないと思います。すなわち、主に自然科学の知見としてわたしたちにもたらされる「知」のほとんどは、そもそもさまざまな失敗にもとづいた実験や観察の結果に由来している。また、それとは異なりますが、哲学がしばしば弁証法と呼ぶものも、こうした失敗(否定)を最終的に成功(肯定)へと転じさせる強固なシステムだと言えます。そうした「最終的に成功に奉仕する失敗」から逃れうるような、よりラディカルな失敗について考えること――それこそが、「失敗」というキーワードによって考えうる最大の可能性なのではないかと思います。

しかし、先に挙げたようないくつかの先行例を見るかぎり、そこにはまだまだ問いを突き詰める余地が残されているのではないでしょうか。端的に言ってしまえば、昨今の芸術や建築の理論において想定されている「失敗」の内実は、いまだ十分にラディカルではない。たとえば、ある作品の制作のためにワークショップを開催したものの、さまざまな要因であまり良いものにはならなかった――これは相対的な失敗ですね。同じく、ある機関からプロジェクトの助成金を得てどこかの街で滞在制作をしたものの、結果的にそれは作品として結実しなかった――これもまだ相対的な失敗でしょう。これはあくまでもひとつの思考実験ですが、本当にラディカルな失敗とは、そこで成功/失敗という相対的な価値判断そのものが崩壊してしまうようなものではないか。

適切な例かどうかわかりませんが、次のような事態を考えてみます。ひとりのアーティストが集団制作に携わる中で、最終的にアーティストであることをやめてしまうという決断をしたとする。これは果たして「失敗」なのでしょうか。少なくとも言えるのは、ここではその「成功/失敗」の判断の主体(のひとつ)であるアーティストの立場そのものに変更が生じている、ということです。ここからさらに次のように問うこともできるでしょう。あるプロジェクトが「失敗」であるとされるとき、それはいったい「誰にとっての」失敗なのか。あるいは、それが失敗であるということは「いつ」判断されるのか。「成功/失敗」の基準が時間とともに変化する、あるいはそもそも問題ではなくなるような事態も、他方では存在するのではないか――わたしがさしあたり関心を抱くのは、そのような「成功/失敗」(という判断)の根源を問うことです。

ステージに上げる/上げられる

最後に、この一連の「参加」をめぐる対話ともひょっとしたら関連するかもしれない、ひとつの些細な話題で本信を締めくくりたいと思います。ご存知かもしれませんが、哲学者のグレアム・ハーマンが、ある短いテクストの中でブリオーの『関係性の美学』に触れています。そこでハーマンは――自分の議論と直接の関係はないと断ったうえで――『関係性の美学』における「関係(性)」が意味するところを次のように要約しています――「ブリオーが「関係性[relations]」という言葉によって言わんとしているのは[……]普通であれば匿名のまますれ違っているはずの、人間どうしのあいだに生じる演出された出会い[staged encounters]のことである」(*3)

この要約が妥当なものかどうかは、ひとまず措いておきましょう。ただ、ここでの「staged」という形容詞の響きには、看過できない何かがあると感じています。上では、訳文の滑らかさを優先して「演出された出会い」と訳しましたが、文字通りの「演出(interpretation)」と区別して、ここではより正確に「ステージ[=舞台]に上げられた出会い」とでも言いかえておきたいところです。

やや大雑把な言い方になりますが、わたしがさまざまな関係を、参加を、失敗を「作品として」提示することにしばしば留保をつけたいと考えるのは、ひょっとしたらこの「ステージに上がる/上げる」ことへのほとんど直感的なためらいに由来しているのかもしれません。わたしがステージに「上がる」のか、誰かがわたしをステージに「上げる」のか、その両方なのか、あるいはそのどちらでもないのか――こうした問題は、わたしたちが大人になってから営む日々の生活よりも、子供のときに(ほとんど強制的に)「参加」させられた学校行事の居心地の悪さを想起すると、より実感をともなって想像できるのではないでしょうか。ステージに上がる/上げられることによって引き起こされる、心をくすぐるような快感と不快感――その「際」のようなところにこそ、「参加」をはじめとするさまざまな問題の核心が潜んでいるように思います。

今回もやや長くなってしまいました。次回のお便りも楽しみにお待ちしています。

星野 太
2015年3月 東京にて

近況:この間、冒頭でお伝えした3月のブルガリアでのシンポジウムのほか、2月に鳥取で行なわれた「地域からアートを考える」というイベントなどに登壇しました。その他、堀之内出版から新しく創刊された『ニュクス』の「〈エコノミー〉概念の思想史」という特集(「修辞学におけるエコノミー」『ニュクス』創刊号)や、『ユリイカ』の「2・5次元」特集(「キャラクターの召喚」『ユリイカ』2015年4月増刊号)などに文章を寄せました。


1. Markus Miessen, The Nightmare of Participation (2010), Sternberg Press, 2011.
2. Lisa Le Feuvre (ed.), Failure, Whitechapel Gallery and MIT Press, 2010.
3. Graham Harman, “Art Without Relations,” ArtReview, September 2014.

【今回の往復書簡ゲスト】
ほしの・ふとし(美学/表象文化論)
1983年生まれ。共著に『人文学と制度』(西山雄二編、未來社、2013年)など。現代美術に関わる著作に『奥村雄樹――ジュン・ヤン』(美学出版、2013年)、「Relational Aesthetics and After|ブリオー×ランシエール論争を読む」を寄せた共著『コンテンポラリー・アート・セオリー』(筒井宏樹編、EOS ArtBooks、2013年)、『拡張される網膜』(編著、BAMBA BOOKS、2012年)などがある。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」特任助教、慶應義塾大学文学部非常勤講師も務める。
http://starfield.petit.cc/

Copyrighted Image