連載 田中功起 質問する 13-2:菅原伸也さんから1

2016年5月13日
第13回(ゲスト:菅原伸也)――現在の日本で共同体を再考することについて

美術批評の菅原伸也さんから田中さんへの第一信。意見交換の出発点として、「参加」「社会的包摂」「地域アート」等に対して抱く問題意識が語られます。

往復書簡 田中功起 目次


件名:参加とその不満――共同体への転回

田中功起さま

ちょうど田中さんからの第一通目が僕のところに届いた日でもある2016年4月16日に熊本を中心とした九州地方で大きな地震が発生しました。東日本大震災の際はロサンゼルスにいた田中さんですが、今回の地震の時は日本に滞在している最中であったと思います。おそらく前回とは地震に対する距離感の違いや「経験の差」など様々なことを感じていることだろうと想像します。さらに、田中さんが所属しているARTISTS’ GUILDのメンバーが企画に関わって開催されているキセイノセイキ展(東京都現代美術館)においてどうやら異常事態が生じているようです。展覧会自体や企画に対してはいろいろ思うところも個人的にあるものの、このような状況に対しては深い憂慮の念を抱いています。しかし、少なくともここでは直接それらの出来事を論ずるのではなく、それらを意識しつつも、田中さんを見習って「抽象的に話す」ことにしようと思っています。


HOTEL CAMPでの夕食会。料理を作って食べながら田中さんの水戸の新作を想起していました。こうした行為も新作の出演者たちと「共にいる」ことではないでしょうか?

共同体への道

前回の手紙のなかで田中さんが仰っていたように、今回の往復書簡のテーマを「共同体」にしようと我々のあいだで決めていたのでした。しかし、共同体をテーマとすることに関しては少々唐突感があるでしょうし(もちろん水戸の個展の大きなテーマではあるのですが)、共同体についての具体的な議論に入る前に、なぜいま共同体について語ることが必要なのか、さらには僕がどうして共同体という概念が重要だと思うようになったかについてまずお話しておいたほうがよいと思います。それを明確にしておくことがおそらく、実際に共同体について論ずる際にも助けとなることでしょう。

共同体という概念を意識するようになったひとつのきっかけには、東日本大震災以後奇妙な形で「コミュニティ」という言葉が盛んに用いられるようになり「コミュニティの再生」といった言葉が叫ばれるようになったことに対する漠然とした違和感がまずあります。さらに、それとも関連した事象ではありますが、「コミュニティ・デザイン」という考え方が注目を浴び、その名のもとに、一般市民が「自発的に」地域活性化に参加させられ自らクリエイティヴィティを発揮して様々な地域の活動に動員されているということ(*1)。もちろん2010年以降の田中さんの協働作業の作品に刺激を受けて、それらの作品は「共同体」という視点から語った方が有益なのではないかと思っていたこともあります。

しかし、屋上屋を架すことになってしまうかもしれませんが、まず今回は本企画「質問する」全体でも重要なテーマのひとつとなっている「参加」という概念について考えてみたいと思っています。それはなぜかと言いますと、現在の社会・経済的状況において参加という概念をもはや肯定的に使うことは困難になってきたのではないか、参加はいまやそのラディカルな意味を失ったのではないか、という疑念からです(*2)。そして言うまでもなく、参加という問題は現在流布している「参加型アート」という作品形態を通して美術とも密接な関連を持っているのです。美術における参加の問題を論じる際、現代の社会・経済的文脈に対する考察は欠かすことはできないと思っています。

そもそも現代において社会自体が参加型になっていると言えるでしょう。例えば、田中さんと知り合うきっかけにもなったTwitterやFacebookのようなSNS、握手会等で会いに行けることを売りにしファンが「選抜総選挙」に参加することができるAKBのようなアイドル、さらには参加型福祉社会やアクティヴ・ソサエティ、全員参加型社会といった、まさに社会自体を能動的に参加させるものにしようとする様々な社会モデル。現代の社会において我々はつねに様々な形で参加することを強いられていて、そして参加することは無条件に素晴らしいことだとされているわけです。そうした状況に置かれている我々はもう一度参加という概念を問い直してみる必要があるでしょうし、そもそも参加という観点から思考すること自体、問題の立て方を間違えているのではないかと思っているのです。先走って言うならば、そうした参加への不満から共同体という概念にたどり着いたわけです。

「参加」概念における、能動と受動の二項対立

参加という概念についてもっと詳しく見てみることにしましょう。参加概念における最も大きな問題は、それが陰に陽に、能動と受動という単純な二項対立に基づいているということです。つまり、参加することは能動的であり、参加しないことは受動的であるということ。そしてあらゆる二項対立と同様、そこには「受動より能動の方が優れている」というヒエラルキーが存在しているのです。したがって、こうした問題構成に従っている限り、受動的な存在をいかにして能動的にするか、すなわちいかにして(能動的に)参加させるかというこれまた単純な課題に還元されてしまうわけです。こうした考えに基づくならば、たとえば美術の文脈でいうと、伝統的な美術鑑賞のあり方は、作品を制作するという意味において能動的である作家と、それをただ受け入れるだけの受動的な鑑賞者という対立構造になっているので、鑑賞者をなんとかして能動的に参加させる方策を考えなければならない、ということになってしまう(*3)。そしてさらにその考えを延長していくと、鑑賞者が能動的であればあるほど良いということになり、クレア・ビショップが『Artificial Hells』の結論部で参照している「参加の梯子」(The Ladder of Participation)(*4)のように、参加の度合いによって分類し「市民のコントロール」(Citizen Control)の状態こそが一番良いという倫理的かつ素朴な視点へと解消されかねません。その時、参加の度合いと作品の出来はイコールで結ばれてしまうことでしょう。

さらに、こうした能動と受動の二項対立の問題点は、個人が能動的であることだけが重要視されがちなので、どのような関係性のなかに参加するのかが問われにくいということです(*5)。田中さんは水戸の個展のカタログのなかで参加者の「参加するという自覚」という言葉を用いていましたが(*6)、参加者の自発性や能動性にばかり焦点が当たり、どのような構造のなかに参加者が参入していくのかという問題が等閑視され「個人化」されがちなのです。

ネオリベラリズムにおける「人的資本」という言説

我々は現代の経済状況においても能動的であることを強いられ個人化されています。そして社会自体が参加型になっているということもそれと大いに関係しています。少しここで経済の話をしてみましょう(もちろんこれは美術の問題とも密接に関連しています)。たとえば、ネオリベラリズムの言説において提唱された「人的資本」という概念がありますが、それは労働者個人の持つ適性や能力を表し、もはや「労働力」ではなくそうした適性や能力に対して賃金が払われることになります。そして我々はつねに自らの「能力資本」に積極的に投資し開発して増殖させることを強いられているわけです(*7)。つまり、就職する前から自らの能力やスキルを能動的に磨き「エンプロイアビリティ」(就業可能性)を高めること、そして就職したあとも、職を失わないため、もしくはさらにキャリアアップするために労働以外の時間に自らのスキルを磨くために積極的に行動すること。労働者個人が「企業」のようになり自分に投資して、つねに自らを高めていかなければならない状況になっているのです。そしてもしいかなる理由であろうと失業した場合、社会・経済的な構造を問われることはなく、労働者個人の怠惰や受動性、つまり自らの人的資本を増殖させることを怠っていたという、個人化された道徳的非難を受けることになる。ネオリベラリズム的「主体」は常時、能動的であることを要求されているわけです。

ネオリベラリズムの徹底化としての社会的包摂

ネオリベラルな政策を進めたサッチャー政権に対して、その後に政権を担ったイギリスのニューレイバーは「第三の道」(*8)を標榜し、ネオリベラリズムでもない、オールドレイバー的な福祉国家でもない福祉政策として「社会的包摂」(social inclusion)(*9)という考え方を採用しました。しかし、それは実際にはネオリベラリズムに対する修正や緩和策というよりも徹底化といったほうがよいでしょう。先ほどのネオリベラリズムの思考においては、人的資本を有効に蓄積することができた「勝ち組」に対して、能動的に自らの能力を開発することを怠ったとされ道徳的に非難される「負け組」(*10)という分断が生み出され、「負け組」はセーフティーネットでかろうじて救われるという形になっていましたが、ニューレイバーの社会的包摂政策では「ウェルフェア・トゥ・ワーク」(労働へといたる福祉)(*11)という考え方において福祉をあくまでも職を得るための手段として位置づけ、受動的な「負け組」である失業者に対しても職業訓練などを通して積極的に自らの能力を開発しスキルを身につけることを実質強制し、それに従わない者はさらに道徳的に非難され福祉を拒否されてしまうという事態が生じています。受動的であるとされた人々を能動的にするという意味において、この構造は参加型アートに非常に似ています。

社会的に排除されていた人々を包摂することは悪いことではないように見えるかもしれませんが、社会的包摂政策の最も大きな問題は、ここでもまた本来社会的な構造の問題であるはずの失業が個人の問題、それも個人のモラルの問題へと還元されてしまい、存在する社会的不平等は隠されてしまうことです。つまり、構造的状況の意識を変えることなく、むしろ現在の構造的問題を受認するよう促すのであり、そういった意味では能動化することによって受動化しているという逆説的な事態が生じていると言うこともできるでしょう。たとえうまく社会に包摂されたとしても、あくまでも社会的ヒエラルキー構造の末席にかろうじて場所を充てがわれておしまいなのです。ここでもまた、どのような構造に参加するのか、さらにはどのような形・地位で参加するのかという問題が完全に捨象されてしまっていて、能動的に参加することばかりが求められているのです(*12)

こうした話は決して日本と無縁のことではありません。民主党政権がニューレイバーの政策を大いに参考にしていたことは有名な話でしょう。2011年には菅内閣のもと「一人ひとりを包摂する社会」特命チームが発足し、さらに同じ年に内閣官房社会的包摂推進室が設置されて初代室長には湯浅誠氏が就任しました。こうした社会的包摂政策は民主党政権の退陣とともに終了してしまったわけでは必ずしもありません。第3次安倍改造内閣の目玉でありながら今ひとつその実態が見えない「一億総活躍社会」という政策がありますが、その「一億総活躍社会国民会議」のメンバーに選ばれた菊池桃子氏がいみじくも「ソーシャル・インクルージョンと言い換えては?」と提案したように、それはその意図として社会的包摂政策を含むものであるでしょう。そもそも「一億総活躍社会」という名前からして、すべての国民を国のために動員し能動的に参加させようとする方針であることは明らかです。

クレア・ビショップは、ソーシャリー・エンゲージド・アートが社会的包摂とほぼ同じレトリックに基づいていることを指摘していますが(*13)、日本における現代美術の文脈で言うならば、先ほど軽く触れたように、参加型アートや、特に参加型アート作品が多く見られるいわゆる「地域アート」(*14)は「関係性の美学」と結び付けるよりも、社会的包摂(さらにはその基盤となっている「参加」という概念)と関連づけて考えたほうがよいと思っています。つまりそれらは美術でありながらも社会包摂的な役割を果たしているのではないか、と。たとえば「地域アート」に関して言うならば、その最も重大な問題は「地域活性化」や「地域振興」、「まちおこし」といった政策的な課題と主に関連づけられ、そのための手段として理解され利用されているということでしょう。では、そこで参加型アートが多く活用されるのはなぜか? 国や自治体の厳しい財政状況を反映して「地域活性化」のあり方はハード面からソフト面へとその焦点を移行させています。なにか立派な建築物(美術館もその範疇に入るでしょう)などを建てるよりも、お金を掛けずに様々な人材を活用したソフト面からの地域活性化が模索されています(要するに民主党政権時代に盛んに言われた「コンクリートから人へ」ということですね)。バブル時代に地方の美術館(ハードとしての建物)が多く建設された時代から「地域アート」としての芸術祭(一時的なソフトとしての展覧会)が乱立している現在への移行というのもそれと一致した傾向でしょう。

そうした「地域アート」で、絵画や彫刻といった伝統的なメディウムよりもむしろ参加型アートが活用されているというのはまさに、受動的に自治体に依存しているとされた地域の住人(*15)を能動的にし「参加する主体」として構築していくためではないでしょうか? 参加型アートに地域の人たちを参加させて能動的な主体にし、アクディヴなプレーヤーとして自己意識を高めること。「地域アート」における参加型アートは、能動的に地域活性化やまちおこしに住民を参加させそのためにクリエイティヴィティを発揮させるための「規律訓練」の装置であるとまで言ってしまいたくなります。少なくともその作品のあり方は、ネオリベラリズムや社会的包摂において人々を能動化するやり方と構造的に相同したものでしょう。したがって、それはその地域に住んでいる人々、それもお年寄りや子供(受け身であるとされる人々ですね)まで含めて(参加型アートは現代美術に慣れていない人々にもアクセスしやすいという「利点」もあります)その中に包摂し、(お金を掛けずに)地域活性化に役立つような能動的主体に生成させるために役立ち得るのです(*16)。それは現代における参加型アートという作品の構造に存する問題であり、その作品や芸術祭自体に自治体からお金が出ているかどうかといった事実関係はもはや重要ではありません。さらには、たとえその作品の明示的な「思想」が反ネオリベラリズムや反地域振興であったとしても、それが能動化する装置としての参加型アートであるならば、問題はそれほど変わらないでしょう。

共同体への転回

では、参加することをつねに強いられるこうした社会や美術において我々はいったいどうすればいいのでしょうか? どうしたら我々はその参加の構造の外部に出ることができるのか? 単純な選択肢としては「参加しない」ということがもちろんあるでしょう。しかし、先ほど人的資本に関する議論で述べたように、能動と受動という二項対立に基づいている限り、「参加しない」ということは受動性、さらには怠惰とイコールで結ばれモラル的に非難されるものでしかありません(*17)。そして、そのこととも関連していると思いますが、本企画の第11回で星野太さんが「原ー参加」という概念を提唱していたように(*18)、「参加しない」ということもまた結局、超越論的な「原ー参加」のなかに包摂されてしまうと言うことは可能でしょう。

では、もはや参加には外部が存在しないのでしょうか? 冒頭で述べたように、ここで我々は参加という観点から思考するやり方自体がそもそも間違っていたのではないか、参加するかしないかそしていかにして受動的な存在を能動的に参加させるかといった問題の立て方が誤っていたのではないか、と振り返ってみる必要があるでしょう。そうした問題の立て方をしている限り、能動と受動という不毛な二項対立を前提としてしまうことから外部へと逃れることはできないのです。問題の立て方自体を変える必要があります。

ジョルジョ・アガンベンは『到来する共同体』のなかで次のように述べています。

外はある特定の空間の向こう側にある別の空間なのではない。そうではなくて、通路であり、その別の空間に出入りするための門扉である。(中略)この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、言ってよければ、限界そのものの経験、外の内にあるということである(*19)

外部とは実体的に独立した別の空間のことではない。外部は敷居であり「外の内」であり、空間と空間のあわい、さらには人間と人間とのあいだにあるのです。そしてもはやそれは参加ではなく共同体の問題であるでしょう。

長い(だが必要な)迂回を経て、ようやくここで共同体の概念にたどり着きました。せっかく現在水戸芸術館で田中さんの素晴らしい個展が開かれている最中なのに、この手紙のなかではほとんど触れることができずすみません。しかし、これ以後の往復書簡のなかで水戸の個展を参照しつつ共同体の問題を、そして共同体の概念を参照しつつ水戸の個展を論じていけたらと思っています。なにより水戸の個展を見ることによって共同体に関する僕の考えが更新されるという刺激的な体験をしたので、僕にとって共同体を論じるときにこの個展に言及しないということはありえないのです。

初回から非常に長い手紙となってしまいすみません。田中さんからのお返事楽しみにしています。

菅原伸也
2016年5月 東京にて


1. これらの例ではなぜか「コミュニティ」とカタカナで表記されるのですが、今回僕が「共同体」という語を用いているのはそれと差異化するためでもあります。
2. もちろん参加の概念は時代や場所によってその意味を変えますし、クレア・ビショップによる『Artificial Hells』のように、参加という視点から批判的な考察を行うことは重要だと思っています。
Claire Bishop, Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship, London: Verso, 2012.
3. これはもちろんジャック・ランシエールが指摘している「観客のパラドックス」の問題です。
ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、2013年、法政大学出版局
しかし、受動的とされてきた観客の側にも能動性を認めるという形において、ランシエールもまた、能動と受動という二項対立自体から完全には逃れられていないと言えるかもしれません。「頭痛――知力解放から蜂起へ」という論文のなかで、廣瀬純氏は、ランシエールの「知力解放」がネオリベラリズムにおける「エンパワメント」と同じではないかと指摘し、ランシエールが「ネオリベラリズム」という語を一度も使っていないこと、68年5月以降の社会・経済的状況の変化を全く考慮に入れていないことを批判しています。
廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる――思想/政治のための32章』2012年、河出書房新社
4. Bishop, pp.279-280.
5. 関係性に関しては、クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」星野太訳『表象05』月曜社、2011年を参照のこと。
6. 『共にいることの可能性、その試み、その記録――田中功起による、水戸芸術館での、ケーススタディとして』グラムブックス、2016年、p.146
7. 「人的資本理論における労働とは、マルクスが述べるような、ある企業での生産のために一定時間分だけ売られる労働力ではなく、むしろ労働者の持つ適性、能力としての「能力資本」である。そして所得とは、その「能力資本」に対して支払われる賃金のことである。そのとき労働者は、各自の能力資本を所有し、その能力資本を投資して賃金を受け取るような存在と見なされる。このように捉えられた労働者は、一種の「自分自身にとっての企業」なのである。」(佐藤嘉幸『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』2009年、人文書院、p.46)
8. 「第三の道」に関しては、以下を参照。
アンソニー・ギデンズ『第三の道——効率と公正の新たな同盟』佐和隆光訳、日本経済新聞社、2001年
齋藤純一「「第三の道」と社会の変容」『年報政治學』2001年
あと、「第三の道」の言説において、「コミュニティ」が重視され「コミュニティへの義務」が盛んに叫ばれるということは、共同体という視点からはとても興味深いことです。ネオリベラリズム的な「個人」でも社会民主主義的な「国家」でもないものとして「コミュニティ」が俄にその重要性を増したのでしょう。
9. 「社会的包摂」に関しては、Bishop, Artificial Hellsを参照。
そのなかでビショップは「参加は社会的包摂言説において重要な流行語になった。」(拙訳、p.13)と述べています。
10. 「勝ち組」「負け組」という言葉には非常に嫌悪感を覚えますが、便宜上ここでは使用することにします。
11. 「ウェルフェア・トゥ・ワーク」に関しては、
渋谷望「〈参加〉への封じ込め」『魂の労働――ネオリベラリズムの権力論』青土社、2003年と前述の齋藤論文を参照。
12. 水戸での個展に対する批判として、「その場に居つつも共同体に含まれなかった人々の存在」の排除を指摘するものがありますが、いま指摘した観点から言えば、もしそうした人々、たとえばアシスタントをアシスタントとして、宿泊施設で働いている人たちをそうした人としてだけ登場させるならば、構造のなかでマイナーな地位を与えることだけになってしまい、むしろ彼らをも包摂したというPC的な免罪符にしかならないでしょう。
13. 「イギリスにおいて、ニューレイバー(1997-2010)は、諸芸術に対する公的な支出を正当化するためにソーシャリー・エンゲージド・アートの実践者とほとんど同一のレトリックを活用した。」(拙訳、Bishop, Artificial Hells, p.13)
14. 『地域アート――美学/制度/日本』編著者・藤田直哉、2016年、堀之内出版
15. 便宜的にここでは議論をその地域の住民に限定していますが、そこを訪れる他の地域の人々をも含み得ます。
16. こうした欲望を臆することなく前面に出しているのが、今年初回を迎えるさいたまトリエンナーレでしょう。さいたまトリエンナーレ2016のコンセプトには次のように記されています。
「さいたまトリエンナーレ2016は、「ソフト・アーバニズム(柔らかな都市計画)」という概念のもと、文化、芸術を核として、まちの営みに創造性を吹き込むための実験的な取り組みとして開催します。」「さいたま市に生活する人たちの関心を呼び起こし、市民が創造のプロセスそのものに参加できるプロジェクトを重視します。(中略)市民がさまざまな方法で参加できるプロジェクトを展開し、「共につくる、参加する芸術祭」をめざします。」(ともに、「さいたまトリエンナーレのコンセプト」より。ヨーゼフ・ボイスの有名な言葉「すべての人は芸術家である」が反動的な形で実現されるかのようです。
あともうひとつ加えておくならば、来たるべき2020年の東京オリンピックでは、ますます我々はオリンピックへと「自発的に」参加させられていくことになるでしょう。そしてそのために参加型アートはここでも「活用」されることでしょう。
17. 「参加しない」ということも共同体の枠組みで考えるならば、もっと別の意義を持ってくるはずです。たとえば、バートルビーのような「無為」の存在は、参加の有無とは違った形で共同体という概念においてこそ思考することができるでのはないでしょうか?
18. 「田中功起 質問する 11-4:星野太さんから2」『ART iT』、2015年
19. ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳、月曜社、2015年、p.87



近況:少し前のことになってしまいますが、大阪のCreative Center Osaka(名村造船旧大阪工場跡)で今年の1月25日から2月21日まで開かれた(会期は1年ということなので正確に言えば今も会期中ではあるのですが……)「クロニクル、クロニクル!」展のレビューを書きました。展覧会公式サイトに掲載されています。
あと、ゴールデンウィーク中には、blanClassで開催されたHOTEL CAMPの夕食会(5月3日)で、いろいろな方々と一緒に料理を作り食べました。


【今回の往復書簡ゲスト】
すがわら・しんや(美術批評・理論)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論修士課程修了。主な論文に「百瀬文論/分裂する空間」、「高橋大輔論/絵画と絵画でないもの」(ともに「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILIー交錯する現在ー」展覧会カタログ)。

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