連載 田中功起 質問する 5-4:沢山遼さんから 2

「批評」そのものの可能性をめぐって美術批評の沢山さんと交わす往復書簡の第2信目。批評する態度を自己分析する態度と言い換え、作家が作品をつくる行為と、批判家の近似性を指摘した田中さんの論を受け、進化論的アプローチから差異と反復について考えます。

田中功起さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:批評というリヴァイバル

田中功起さま

お返事ありがとうございます。私は1信でお皿の機能主義的な自己言及性に触れ、それは批評の問題でもあると書きました。そこで田中さんから「お皿は一万年後もお皿か」という課題を頂いたわけですが、批評を巡る私たちのやりとりは、いつしかオブジェクト(モノ)についての話題に変わってきたようですね。それは、すくなからずオブジェクティブなレベルでの作業を伴う田中さんならではの関心なのかもしれませんが、しかし依然として、私たちにとってその問題はいまだ批評についての話題でもあるような気がしています。


最近自作した本棚。

前回までのやりとりにおいて、私は、あらゆる事物は批評、あるいは批評的な性質を内在している、と書きました。それはたとえば「お皿はお皿として使える」というトートロジカルな機能主義的限定に求められる。しかし一方で水分を漏らさず、食べ物を盛ることができる食器の性質とは、それが関係するもの(食べ物)をその性質において、予め内包しています。そのため、この言明をトートロジーとすることには、重大な矛盾が孕まれているのかもしれません。通常トートロジーとは「同じであること」を根拠とする閉鎖的な命題のことを示しているからです。ですが、お皿がお皿であるというトートロジーは、お皿の「機能」についての言明であることで、「関係」を先行させている。では、この「トートロジカルな関係」という言明じたいの矛盾はいかにして解消されうるのか。また、私が事物の批評性として定義した、この種の機能主義的な自己言及性(トートロジー)は、田中さんの第二信で疑問点として挙がっていたように、「空飛ぶ円盤」であり、「つるつるすべすべしたもの」であり、「重し」でもあるような、お皿の異なる運用方法の拡張をいかにして許容するのでしょうか。言い換えれば、自己言及性と差異、あるいは関係は、まったく別の階層に帰属するものなのでしょうか。

進化論的アプローチ、あるいは差異と反復

そこで今回は、前回田中さんから投げかけられた「お皿は一万年後もお皿か」という問題設定について考えるために、「進化」という大きなタイムスケールから事物の生成を考えてみたいと考えています。この問題を考えるにあたって進化を例に挙げたのは、それが「同じであること(反復)」と「異なっていること(差異)」という二律背反を抱えながら、かつそれを自らのプロセスにおいて解消してきたように思われるからです。親から子へと引き渡される遺伝的プログラムを何世代にも渡ってきわめて正確に媒介しながら、かつ、膨大な遺伝情報の継承の蓄積の過程で自らの遺伝情報を変化させる「進化」とは、まさしく二つの異なった作業(差異と反復)を無矛盾的に同時進行させる驚異的な表現の在り様にほかなりません。

だから「進化」について考えることは、差異において反復を、あるいは反復において差異を考えることになるでしょう。この進化の特異な性質に自覚的であったと思われるのが『精神と物質』のエルヴィン・シュレーディンガー(物理学者)と『精神と自然』のグレゴリー・ベイトソン(人類学者、生態心理学者)です。両者は、それぞれに近似した立場をとりました。たとえば、シュレーディンガーとベイトソンはともに、ラマルクが唱えた「獲得形質の遺伝」とダーウィン(主義)的な自然選択の理論を退けています。環境的変化に応じた体細胞的な変化が遺伝子型レベルに到達し、親から子へと世代間継承されるというというラマルク説を受け入れるとすると、遺伝的決定に進化のプロセスが縛り付けられ、個々の個体が体細胞変化によって能動的に進化に働きかける自由を排除することになる(*1)。また、ダーウィンによる自然選択の理論を受け入れることになれば、突然変異によって外的環境に適した種だけが自動的に生き延びることになり、それは、それ以外の遺伝的構成を持った個体の排除=死滅をもって保証される。同じように、自然選択のもとでサバイバルすることだけを原則とし、生物が絶えず破壊的な生存競争に置かれているのであれば、個体群の遺伝的な多様性や他の種との共存関係を説明することができません(*2)。ラマルクは進化において「反復」を、ダーウィンは「差異」を重視したことになりますが、しかしそれはそのどちらかを硬直化させ、双方の対立を解消させるものではなかった。しかもそれは生物が環境にたいしていかに主体的に関わるかを教えるものではなかった。

シュレーディンガーは、無意識の神経過程、たとえば心臓の鼓動や腸の蠕動運動などが、学習を通じた習熟によって獲得されてきた可能性について述べています(*3)。またベイトソンはより直接的に、体細胞的変化を遂げる能力自体が、学習を通じて獲得されることがありうると言いました(*4)。ベイトソンとシュレーディンガーとの共通性は、神経過程や体細胞的適応が、両者の「学習」を通じてもたらされると考えたところにあります。両者にとって進化とは、外的環境の変化と個体の意識的な学習(精神活動)との複合的な過程において生じるものでした。そのため、シュレーディンガーとベイトソンの著作のタイトルが似ている(『精神と物質』、『精神と自然』)のは偶然ではないでしょう。そこでは精神過程を自然あるいは物質的過程へと媒介することが目論まれていたからです。

とはいえ、ここでは進化について議論することが課題ではありませんから、それ以上の突っ込んだ議論には入らないことにしましょう。重要なのは、進化のプロセスを語る上で、彼らが、自然や物質などを閉鎖的なシステムとしては捉えなかったことにあります。それらは常に精神過程に浸されている。環境の変化→遺伝子の変化という唯物的な展開だけでは進化を説明することはできない。加えてシュレーディンガーは、親が一旦獲得された遺伝的性質を子へと「教える」ことによってその能力の運用がより強固になっていくとも述べています。これは進化のみならず、私たちの議論にも敷衍しうる問題設定を与えるものかもしれません。

事物のコミュニケーション

どのような事物であれ、世界とコミュニケーションをはかるための方法が予め設定されています。たとえば道具はそれを使う者との間でメッセージを伝達している。あらゆる道具は使い方を学ぶこと、あるいは学ぶことによって後続する他者に使い方を伝授するという「遺伝的」な操作を組み込んでいる。つまり、道具を使うことは、道具を伝承・継承することに等しい。しかし、そこから別の運用方法を開発し、事物の有用性を脱臼させることは、そのメッセージ全体を否定するものではないと思います。田中さんから挙がった「お皿はお皿である」という命題と「事物の異なる運用の仕方を開発する(有用性を脱臼させる)こと」は相反するのかという疑問に対する私なりの回答を進化の過程に倣って言えば、別の応用可能性を引き出すことは「教える」「学習する」プロセスに孕まれた積極的な誤読の可能性である、つまり反復から差異が産出される進化論的な余地であると言えるのかもしれません。

事物に対する私の関心の所在は、さしあたり、シュレーディンガーやベイトソンが「精神と自然(物質)」として定義づけたような、学習と発明の折り重なりのなかにあります。そこで、遺伝的プロセスが事物に対するアナロジーとして機能するとすれば、生命や人間の歴史もひとつの批評的な「発明」であり、同様に批評もまた「発明」であると断言することも許されるかもしれません。前回の第一信で私が批評という「反復」に積極的な意義を見出そうとしたのは、批評に差異と反復を調停する力能こそを認めたいという思いがあったからです。したがって、「「芸術批評の機能や役割とは、(中略)その作品の効果・運用方法を限りなく拡張する」のだとすれば、このとき「批評家」とアーティストは限りなく近しい存在になる」と述べる田中さんの意見にも私は賛成します。しかし私たちの結論をより徹底させるならば、批評家などという職能が失われてしまったとしても、芸術家がこの世からいなくなったとしても、あらゆる場所に批評は眠っていると強弁したい衝動に駆られるのです。それはほとんど、人間が消滅してもモノや音が無くならないように、人間が消えても「批評」だけは残るという妄想に近い。

話を戻します。道具の歴史では、メッセージを媒介する、あるいは運用方法を適切に処理することが重視される。あるいは逆に道具を媒介として、他者とその場でルールが共有され、物事が伝達されます。第一信で言及しましたが、柳宗悦が提唱した「無名性」とは、そのようなオブジェクティブなレベルでの情報の継承性のことを指すのだと思います。どの個体が進化に寄与したかということがあまり問題にならないのと同じで、そのようなプロセスは固有名の存在=有名性とも媒体自体の自律性とも関わりなく進行するでしょう。そのとき人間は異なる事物と事物を伝承する媒介(メディウム)に過ぎなくなるからです(ゆえに柳の言説とはメディウム(媒体)の自律性を確保しようとする人間主体への批判=大文字の芸術への批判として読むことができます)。

逆に言うと、道具からその用途が失われることは、マヤのピラミッドやナスカの地上絵のように、それを作った人々とのコミュニケーションの回路が失われてしまったということです。たとえば、ほとんどの遺構や先史時代のオブジェはそれがどのような因果関係を組織するものか分からない。ですが、それは未知の他者からのメッセージを内包させているのかもしれません。素朴な実感として、芸術批評の過程では、物質的痕跡からある歴史的・環境的な因果関係を解読する考古学者のような興奮に駆り立てられることがあります。批評は、過去の遺構に接するように、おそらくこの一万年のタイムスパンを同時代の芸術作品にも感じているのかもしれません。長い時を通過し、継承と伝承の回路が断ち切られたオブジェに接するように、作品に接すること。その情報の圧縮、縮約の振幅に立ち会い、思考の抽象性と感覚的実体とを媒介させるため、認識論的推論を働かせること。擦り切れ、摩耗したメッセージ、コミュニケーションを復活させること。であれば、私たちには一見想像不可能な技術体系のもとに獲得されるメッセージを瞬時に封じ込めた、そうしたメディアがたまたま「芸術」などと呼ばれてきただけかもしれない。芸術の「現在性」を設定することの困難は、そうした点にあるようにも思われます。つまり、それがいかに同時代的な事象であっても、強靭な思考と野心と実践を孕んだ作品に対しては、批評は一万年越しの「復活(リヴァイヴ)」のトーンとともに記述することになるかもしれないのです。

沢山遼 2011年3月 東京より

  1. エルヴィン・シュレーディンガー『精神と物質』中村量空訳、工作社、1987年、41〜42頁参照。グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳、思索社、1982年、204〜209頁参照。

  2. シュレーディンガー、同上、38頁参照。ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳、思索社、1990年、599〜600頁参照。

  3. シュレーディンガー、同上、21〜23頁参照。

  4. ベイトソン、『精神と自然』、219頁参照。

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