連載 田中功起 質問する 2-4:成相肇さんから 2

件名:作ることと見ること(2)

田中さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

田中功起さま

今年の東京は珍しく雪が多く、寒い日が続いています。はんてん羽織って書いてます。
 こちらの近況ですが、雑誌の企画で中ザワヒデキさんと対談させていただく機会がありました。情けないことに中ザワさんのスピードと明快さにとにかく圧倒されてコテンパンで、けっこうヘコんじゃいました。対談のスキルというものを目の当たりにして勉強させてもらった、なんていうのは間抜けな話ですが、対談には対談の文法というものがありますね。当たり前か。いや対談の経験がなかったわけではないのですが、あらためて身を以て思い知らされました。
 往復書簡もまたしかり。


台所に放っておいた息子がいつの間にか作っていたすてきな感じのする何か

さて本題。「見る」側が意味を与えることによる「作品」の成立。「作る」行為と対等の行為としての「見る」、あるいは「強い鑑賞」…。
 ぼくが誘導しておきながら、お返事を読んで今さらながら気づかされました。ここで話題になっていることは、受容美学のテーマそのものです。

受容美学、つまりは「絶対的な作者」とか「作品の客観性」「自律性」「正しい解釈」などといった旧来の作品研究が担保にしていた聖域を疑って、受容者による解釈を積極的に捉える立場ですね。作品の「答え」探しではなく、ある作品がどのような読まれ方を求めており、また受容者はそれに対してどのような読み方をするのか、その関係やプロセスを探っていこう、という態度。
 例えば『ドン・キホーテ』が、読まれる時代や人の違いによって悲劇であったり喜劇であったりはたまた残酷物語であったり、あるいはかつてお賽銭を投げられる対象だった仏像が近代になってから「彫刻」として見なされる、とかいった場合を想定するとわかりやすい。どこかに正当な見方を設定するのではなしに、それぞれのコンテクスト、作品外の状況を鑑みなければ作品は把握できない、というわけです。ひとつの作品には多様な解釈があり得る。「作者の意図」や「作品の意味」を固定して考えるのは幻想であり、作品は常に同一ではあり得ない…。

この往復書簡において、「見る」側が「作る」ことに積極的に関わっている、もっといえば「見る」側が「作って」いるのだ、という、ここまでの展開はまさに受容美学ですよね。
 ひとつの学問分野について語っていくのはそれこそこの書簡の文法にそぐわないでしょうから、より具体的なレベルにつなげていきます。

この受容美学を下敷きにして、ニューヨークMoMAのエデュケーション担当、アメリア・アレナスがVisual Thinking Curriculumなる実践方法を考案しました。これが「対話型鑑賞」として日本に紹介されて一躍有名になる。どういう方法かというと、作品とそれを見る人をつなぐ橋渡し役が一方的に「解説」を行うのではなく(「作品の意味」というゴールを設けることなく)、「作品の中に何が見える?」「なぜそう思ったの?」といった問いかけを基本にしたシンプルな対話によって、見ることと考えることの反復を促し、多様な意見を排除することなく作品を味わっていく、というものです。

受容美学のことも含めて、このVTCなどは「鑑賞」をめぐる話題においてもはやクリシェで、関係者にとって今さらな感が強い(後者が知られるきっかけになったアレナスの著書(註)が出たのはもう10年以上も前)のですが、それゆえぼく自身麻痺しているところがある気もします。「一躍有名に」と書いてはみたものの、どれほど知られているのかわからず、だらだら解説した次第。
 ただ、この先の話は表立って触れられる機会をあまり見ないので、さらに続けます。

「対話型鑑賞」は、とりわけ初等・中等教育の先生たちに大いにウケました。というのも、その前提として、小学校の「図工」、中学校の「美術」の学習指導要領の「目標」および「内容」の項目には、「A表現」と「B鑑賞」の二項目が同列に挙げられていて、後者の「鑑賞」について、先生たちがどう指導すべきかわからないという状況があった。そして、基本的に美学美術史の知識を持っていない先生たちにとって、知識に収斂しない(ように思える)対話による鑑賞方法というのは渡りに船だった。また、「作者の意図」や「作品の意味」よりも個人の自由な解釈を積極視するやり方は非常に魅力的でした。「創造的鑑賞」―この書簡でいっているところの「作る」ことと対等の「見る」こと―が合い言葉のように語られていきます。

ところが実際にやってみるとこれがなかなかうまく行かない。じつはVTCも結局は最終的に「鑑賞者」が知識を駆使できる段階を目指す発達段階理論をベースにしていて、「作品」と「鑑賞者」とをつなぐ媒介者(指導者)には鑑賞者を次のステージへと導いていく相当の技量が求められる。見る対象となる作品の選択も含めて媒介者は特権的にならざるを得ない。これを意識できないと、作品から離れて飛躍した連想(例えば抽象画の中に人面が見える、とか)が出るばかりでそこから進むことができなくなる。いや進む必要はないかもしれない。じっさい、この段階で満足する先生たちも多い。一人一人の多様な解釈はそれ自体ですばらしい、それが「個性」である、というふうに。でも、そうするとどんな自由な解釈も許容できるのか、だとすればわざわざ「作品」を見る必要があるんだろうか…受容美学の悩みの種のひとつもこれです。作品に近づく術であった方法が、いつしか「作品の意味/作者の意図」は無視してよい、というふうに表面的に理解されて、作品は解釈する対象ではなく利用されるモノに転換されちゃうわけですね。

一方で、飛躍した連想を歓迎してそれを徹底的に促すトレーニング、という方向もあり得る。しかしそういうやり方もまた実現されないのは、先生たちに、「評価」せねばならないというジレンマがあるからです。自由な意見をどんどん出させるのはいいけれども、結局は子どもたち全員にその意見を何らかの形へ代替させ、優劣をつけねばならない。発言の有無だけでは評価できず、また自由な子どもの「個性」にも結局点数をつけることになる(以前ぼくは、大学みたいに「授業態度」程度の評価にすればよいのではないですか、とある小学校の先生に言ったところ、「ド素人の意見だ」と頭ごなしに叱られた経験があるのですが)。

こうした先生たちの悩みがどこに根ざしているのかというと、それは「対話型鑑賞」が本来持っている問題というよりも、「作る」ことへの過信と「見る」ことへの不信、にあるのではないかとぼくは思っています。「対話型鑑賞」は、もともと作ることへの信頼が絶対的に強い教育現場との親和性が高かったからこそ歓迎された。しかしそこから引き出された「創造的鑑賞」というのは、どうもすべてを「作る」ことの方へとすり替えているようにも感じます。これが行き過ぎると、作品や作者に対する敬意や共感はまったくなおざりにされてしまう。田中さんからのお返事の中に、「俺にもできる」という言葉は「作る―見る」関係が対等であるときに発せられる、という話がありましたが、これはむしろ「見る」ことが放棄されたときに発せられる軽蔑の文句ではないでしょうか。

「作る」ことの原初的な喜び、田中さんの言葉を引けば「作っているときの衝動や喜びを含むその行為」があるのなら、「見る」ことの原初的な喜びというのもまたあるはずです。少なくとも現在の小中学校の教育からは「作ることが上手な子」は育っても、「見ることが上手な子」は一向に出てきそうにない。「感想文」という、「作る(与える)」側と「見る(与えられる)」側とを整然と線引きし、「見る」ことの衝動を抑制させてしまう(そして大人でも書くのが難しい)課題を強いることを続けている限りは、同じ状況のままでしょう。必要なのは新しい鑑賞方法よりも、「見る」ことの喜びというものを考えてみることです。先にぼくが言った「鑑賞者のいない世界」は、そのことを確認するところから始まるのだと思います。
 「作る」ことを考えることは、「見る」ことを考えなければ片手落ちです。そういう意識が学習指導要領における「表現」「鑑賞」の二項目にも少なからず込められているのですが、ではそれをいかに具体化していくかについては、美術館にとっても大きな宿題として残されたままです。

話の方向がかなり偏ってしまったかもしれませんが、現実的で切実な問題を書かせてもらいました。
 この往復書簡は、「作品」以前の「作る」ということについて考える、というところに焦点が当てられています(とぼくは理解しました)が、この「作品」以前の「作る」ということに対して、最もなまなましく向き合っているのは初等・中等教育の現場でしょう。ここには書けませんでしたが、例えば小学校では課題を与えた制作と併行して、課題を与えずに(「作品」ではない)何かを作らせ、そのプロセスを楽しもうという「造形遊び」という授業があることなど、このテーマを考えるにあたっていろいろと参照できるところがあります。

それと最後に。田中さんとのやりとりがこのような展開になったことはちょっとした驚きであり、嬉しくもありました。
 そもそも鑑賞とか教育とかいうタームは、少なくとも現代美術の語りからはほとんど切り離されている部分です。ダサいこととして、無視されているといってもいい。その意味では「作る」ことを考えるというのもけっこうダサい。しかしこういう話題でなければ言えないこともあって、それをいくらかは出すことができたのではないかとも思っています。

2回の書簡とも同じことを繰り返す内容になった気もしますが、ぼくからのお返事は以上です。
 ありがとうございました!

平成22年2月22日22時 東京より
成相肇

註 アメリア・アレナス著/福のり子訳『なぜ、これがアートなの?』淡交社、1998


なりあい・はじめ(府中市美術館学芸員)
1979年生まれ。専門は岡本太郎を中心とする戦後日本のアヴァンギャルド。最近の担当企画展に『第4回府中ビエンナーレ』『純粋なる形象 ディーター・ラムスの時代―機能主義デザイン再考』など。

関連リンク
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/

連載 往復書簡 田中功起 目次

・質問する 2-1:成相肇さんへ
・質問する 2-2:成相肇さんから 1
・質問する 2-3:成相肇さんへ 2

Copyrighted Image