連載 田中功起 質問する 11-1:星野太さんへ1

第11回(ゲスト:星野太)——参加が目指すところはいったいどこなのだろうか

今回からこの往復書簡シリーズ11人目のゲスト、美学/表象文化論の星野太さんを迎えた回が始まります。前回までのキーワード「参加」に引き続きこだわりつつも、意見を交わす相手が変われば、その視点も自ずと変わるもの。田中さんはある映画にまつわるお話から、星野さんへの問いかけを始めます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:出来事の記録と共同体の制作

星野太さま

お誘いからずいぶんと時間が過ぎてしまいすみません。この間、いくつかのプロジェクトが進行していて、なかなかまとまった時間がつくることができませんでした。いまも水戸のビジネスホテルでこれを書き始めています。おそらく書き終わらないと思われ、この書簡はいくつかの場所を移動しつつ書き継がれていくはずです。

ここしばらくこの「質問する」の中では、ずっと「参加」をめぐる問いをつづけています。もちろんそれは日本語での参加という意味(例えば社会参加など)も反映しつつ展開していますが、ぼくの関心はむしろアートの現場で起きている意味、つまり「Participation」という実践の方法について考えてみたいというところからきています。小林晴夫さんとの回では実践的な問題を考えてみたいと思ってやりとりを行ってきましたが、星野さんとはむしろすこし抽象的な議論もできればと思っています。


横になるひと

見取り図とその先

例えばボリス・グロイスが「参加」をめぐる系譜学を書いています(*1)。その端緒としてワーグナーによる総合芸術の可能性とその参加のあり方が描かれます。そこにはいわば共産主義という国民の「参加」によって成り立つプログラムが、ロシア出身の彼の念頭にあったのではないかと思います。他にはダダやウォーホルのファクトリー、インターネット社会における「参加」などが検討されます。クレア・ビショップは「参加」をめぐるテキストのアンソロジーをまとめていますよね(*2)。その中にはドゥボールの「スペクタクルの社会」も含まれていますし、それを参照するニコラ・ブリオ−の「関係性の美学」も含まれます。あるいはジャック・ランシエールは演劇における観客論に言及する形で能動的/受動的という観客の立場を解体し、平等な参加のあり方を観客の解放として提起しています(*3)。日本語に訳されているものもあればそうでないものもありますが、アートの現場では「参加」が重要なタームとして検討されています。まず星野さんに聞いてみたいのは、その見取り図です。「参加」にはどのような歴史的背景があり、現在なぜそれが重要な方法論となっているのか。星野さんはどのように考えますか?

しかし、もちろん一番、共に考えてみたいのはその先の話です。それは「参加」の意味を問うことです。ぼくの近年の制作は「参加」がその中心的なものになっています。いまも京都にいて、高校生が中心的に参加するプロジェクトを進行させています。でもその場への参加者は、「参加者」としてクレジットされている高校生以外にもいます。それぞれの役割をもってその場に、例えば撮影班として、録音班として、展覧会を企画する運営側として、記録写真撮影をするものとして、そして5つのワークショップにそれぞれ関係するインストラクターやファシリテーター、レクチャラーとして。ぼくも含めてその場には、そうした複数の、25名程度の参加者がいて、二日間のワークショップの時間と場所を共有しました。ぼくはその枠組みを作り、各ワークショップの最初のアイデアを考えています。でも、その内容は、個別のワークショップを考えるすべての人びととの対話を通して、考え直され、あるいは運営上の条件や制約の中で、さらに考え直され、撮影上の技術的/映像的判断の提案を受けて、さらに考え直される。その中でぼく自身も変化します。だからぼくも、この全体に参加し、共にその場を形作っているもののひとりとなる。

それはうまくいくときもあれば、それほどうまくいかないときもあります。こうした場をぼくは「共に考え作る場」であると、小林さんとのやりとりの中で書いています。それはより抽象的に言ってしまえば学びの場といえるでしょう。教育と書くと誤解されるかもしれませんね。教育と言うとき、そこでは一方的に「教える – 教えられる」関係をイメージしてしまうからです。学びと書けば、それは相互に行われるととらえ返すことができるでしょう。ここではその関係性がより曖昧だからです。その場にいる全員が参加者であるとすれば、それぞれの参加者は何かをそこで教え、同時に何かをそこで学んでいる。いってみれば学びの共同体を作成すること、それが「参加」の意味することのひとつです。

未来に再生される

最近、藤井光さんの映画「ASAHIZA 人間は、どこへ行く」(*4)を見る機会があり、藤井さんとも上映の現場で対話をしました。藤井さんは、ぼくとの繋がりで言えば、2013年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館のためのプロジェクトの二つ(詩人と階段)の撮影を依頼し、また全体のプロジェクトの対話者として、撮影の計画を打ち合わせする機会を使って、さまざまなことを話しました。今回の京都での撮影も、藤井さんにお願いしました(*5)

映画は、福島県南相馬市にある、朝日座という映画館をめぐるドキュメンタリーです。映画館の扉が閉まるシーンからはじまり(映画館で見ていると実際にその館でも同じように扉が閉められたので、とても奇妙な感覚になります)、観客はすぐさま、東京から朝日座へと向かうバスの映像を通して、この映画へと参加します。映画は朝日座を知る地元の人びとへのインタビュー映像で主に構成されるのですが、どうやらそのバスはこのインタビュー映像の上映会へと向かっていたことに、映画を見ているぼくらは気付きはじめます。

ここには複数の参加のレイヤーが見えてきます。インタビューに応えることで映画製作に参加する人びと(彼らは上映会にも参加しています)、東京からのバスツアー/朝日座での上映会への参加者、そしてこの上映会のシーンも取り入れた映画の最終版を、映画館で見る観客。それら三つの距離をもつ者たちが、映画を通してひとつに関係づけられる。

この三つの距離は震災をめぐる距離感を反映しています。つまり当事者と非当事者をめぐる問いです。映画製作へ参加する、朝日座を知る人びとは被災者です。しかし藤井さんはぼくたちがテレビなどを通して「消費」した被災者のイメージを記録しません。朝日座を懐かしく語る人びとは明るく、ときにユーモラスに回想します。東京からのバスツアー(これをある種のダークツーリズムととらえてもいいかもしれません)への参加者は非被災者を象徴します。もちろん東京も地震の被災地ではあると思うので、これはいわば「演出」された非被災者たちです。そしてそれを映画館でこうしてみる観客は、現在これを見ているにもかかわらず、未来の観客です。記録された何かを未来において見る人びと、藤井さんはそれを「未来に再生される作品」といいました。そもそも映画は常に既に過去の記録であり、それを見る観客は常に既に未来の観客です。未来から過去をみる視線、それをぼくらはこの映画を見ることで先取りする。震災の当事者性をめぐる問いがかなり抽象的なかたちに還元されることで、この映画は未来から見返されるための映画になります。出来事からの距離、過去の出来事を体験した人びと、その体験を語る人びとへ出会う現在の人びと、それらの記録を未来からみる人びと。

ぼくたちが出来事を、記録を通してしか共有できないのだとすれば、映画は、あるいは映像制作は、出来事の共有をいかに未来へとプロジェクト(投げ出し、映し出す)するのか、という方法です。

さて、アーティストはどうして「参加」という実践を行っているのでしょうか。ぼくにもそれが何を意味するのかがまだよくわからないし、自分は何に突き動かされてこの活動へと向かっているのかを知りたくもあります。
しばらくお付き合いください。

田中功起
2014年12月 冬の水戸と京都と川崎にて


1. Boris Groys, “A Genealogy of Participatory Art”, The Art to Participation 1950 to Now, San Francisco Museum of Modern Art, Thames & Hudson, 2008, pp.18–31.
2. Claire Bishop (editor) Participation – Document of Contemporary Art, Whitechapel Gallery, The MIT Press, 2006
3. ジャック・ランシエール『解放された観客』法政大学出版局、梶田裕 訳、2013
4. http://www.asahiza.jp
5. 正確には、ぼくも所属するARTISTS’ GUILDの中の、主に展示記録撮影班であるAGプロダクションに依頼してます。

近況:新刊『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)が好評発売中です。また来年3月に「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」に参加します。

【今回の往復書簡ゲスト】
ほしの・ふとし(美学/表象文化論)
1983年生まれ。共著に『人文学と制度』(西山雄二編、未來社、2013年)など。現代美術に関わる著作に『奥村雄樹――ジュン・ヤン』(美学出版、2013年)、「Relational Aesthetics and After|ブリオー×ランシエール論争を読む」を寄せた共著『コンテンポラリー・アート・セオリー』(筒井宏樹編、EOS ArtBooks、2013年)、『拡張される網膜』(編著、BAMBA BOOKS、2012年)などがある。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」特任助教、高崎経済大学経済学部非常勤講師も務める。
http://starfield.petit.cc/

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