連載 田中功起 質問する 12-3:遠藤水城さんへ2

第12回(ゲスト:遠藤水城)――アートの社会的な取り組みとそれによって生じる倫理的な問いについて

旧知のキュレーター、遠藤水城さんを迎えた往復書簡。アートの社会への影響、作家の倫理を問うた田中さんは、遠藤さんの前便を受け、より個人的または根源的ともいえそうな思考に立ち返ります。

往復書簡 田中功起 目次

件名:二つの世界のあいだ、社会が変わらないのだとしても

遠藤水城さま

返信ありがとう。
いまローマにいて、ベルリンで行った個展の再構成の展覧会を準備しています。会場となるMACROは市運営している美術館で、公的資金を使っているため館内の展示作業に関わる作業を複数の業者に分割しなければならないらしい。例えば展示ラベルとインストラクション・ピースの切り文字は別の業者に、レンタルしているモニターと館内で所有しているプロジェクターは、別々の業者の取り扱いというように。美術館側の担当キュレーターはもちろんいるけど、基本、展示のとりまとめも外注で、そのうえ業者が展示作業に来る日程もだいたい分かれていて、何人か現場にひとがいるんだけれども、そもそも誰が何の担当なのか、なんのためにそのひとがそこにいるのか、最初はまったくわからなかった。どういうシステムになっているのかも説明なしで、大丈夫大丈夫って感じで担当キュレーターは現場を離れて別の会議に行ってしまうし、現場のコントラクターには英語が通じないし、展示作業が間に合う、間に合わないには関わらず土曜日も休みで、キュレーター不在のままぼくとドイツ銀行のチームで展示作業をすることになって(幸い、状況を見越してベルリンから業者を呼んでおいたのがよかった)。

イタリアはアウトノミアなどの労働運動の歴史もあるから、ストライキも多いし、上記のように富の再分配に際して気を遣っているようにも思えるけど、それらはいいことでもあるのかもだけど、その分、非効率な分散型システムと官僚制度によって責任が回避され、仕事はなかなか進まない。それが財政をより圧迫しているようにも感じるし、一方でそののんびりしたところは過ごしやすく感じるところもある。まあでもそのいいかげんさによって、しわ寄せがぼくのような立場にやってくることになるけど。


ロサンゼルスでのファーマーズ・マーケット。

希望の荒地

さて、遠藤くんの返信を読み返しながら、この往復書簡が少し違う局面に入った気がしました。それは質問するという方法がもつ距離感(公開の往復書簡っていう形式も関係しているけど)が解除され、むしろ個人的なものになったというか。くり返し読めば読むほど、ぼくは遠藤くんの考えに納得するし、自分がそれについて何かを改めて重ねていくことができなくなってしまった。だから形式性を気にせずつらつらと書いてみようと思う。

自分がなにを担保に現在の行動と活動と行為をつづけているのかといえば、それは近い未来と遠い未来を見通せているからなのかもしれない、と思う。いや、見通せている確信はないにしてもそう自分が思えるだけの材料が手元にあって、そこから導いた未来がある。それを遠藤くんは「荒地」といい、ぼくはそこへの到達を遅らせている。その遅れだけが、現在の、周囲の理解と無理解の風を横に置いておいてもぼくがつづけられる指針になっている。でも確かにキュレーターには先に「荒地」を確認してきてほしい気もする。もちろんだからといってぼくはそれについていくわけでもないけど。

ロサンゼルスで遠藤くんと展覧会を見に行って(誰の展示だったかな?)、アーティストは多くのことを実際考えていて、ぼくらがそのアーティストの固定的なイメージを作り上げているけど、そのイメージに収まらない幅の広さに気付かされることがあるよね、ってそんな話をしていた。それはアーティストに限らず、あらゆるひとがあらゆる面で幅を持っているはずで、ぼくらはそれをどうしても見過ごしがちだよね。どうしても固定的なイメージを押しつけてしまう。あるいはそれを広め、そのイメージに踊らされてしまう。他者をそう見る前に立ち止まることができる余裕を持ちたいと思う。条件反射を遅延させたい。

未来の荒地は、希望の名のもとに人間不在で存在する。ぼくたちは、別の種として、たまたまそこで行われている「展覧会」というかつて「地球」に生息した生命体による目的不明の造形物の寄せ集めを見ている。生命体の触手を使って作られた「器」と呼ばれていたものや、生命体の似姿に材木を切り刻んで作られたものや、「メロディ」と呼ばれる生命体の空洞を使って制作された音や、その生命体の集まりによる儀式を光の定着によって記録する「紙」や、同様にそれが動きの中に定着される「フィルム」や、光の反射の違いを「色」として認識していた生命体がそれを組み合わせて形作った「絵」などがそこにはある。現在のぼくたちのカテゴリーは一度解体され、もう一度再構成され、ぼくたちは人間ではなくなる。それが「希望の原理」という展覧会からぼくが受け取ったものであり、だからそれは遠く離れた陸の孤島で行われる必要があった。地元の人びとができるだけ少なく、訪れる人びとがわざわざ訪れなければならない場所。それも、その場所のコンテクストはできるかぎり平凡であること。

ぼくはその荒地の手前で立ち往生する。なぜならそれがどういう意味を持つのかを、まだ分かっていないから。

四つの問いかけ

まずはここからはじめよう。この四つの問いに分けられたことを手がかりに書いてみようと思う。そのほとんどは、遠藤くんの書いたことをぼくなりに言い替えただけになるけど。

問い1:世界は目指されるべきだろうか

遠藤くんが書くようにこの「世界」は、目指される前に、そして肯定(ユートピア)と否定(危機)という内部での二分法から離れて、まずは受け入れるべきものなのかもしれない。対処すべき何かがあるわけではなく、対処すべき何かのねつ造があるだけなのかもしれない。危機の固定化によって安定的なポジションを保てる人たちもきっといるのだろう。この現実に向き合うために、世界は目指されるべきではなく、受け入れるものである。ぼくもそう思う。

だからぼくの問いはむしろ反語的なものだったのかもしれない。象徴的に社会に影響を与えると言われるアートがあって、ぼくはそれが本当に長期的に影響を与えるのだろうか、その与えた先をそのアーティストは本当に本気で考えているのだろうか、と問いかけていたのだった。その答えは本気で考えればいい、ではなく、そんなことは誰にもわからない、ということ。直接的な変化や改善を目指すのではないとすれば、長期的な効果は逃げ口上でしかなく、だからその意味では、そもそも来たるべき社会も、ありうべき「世界」も目指されてもいない、のだろう。

問い2:この世界とその世界を同じ世界と言い得るには、その間になにがあるのだろうか

例えば昨日の自分と今日の自分は、自分でそう思っている以上に違っているし、同一のキャラクターを演じつづけられるほどぼくらの人生は単純じゃない。同じように、来たるべき世界が、この現在の世界の改良によって生み出されたとして、それを同一の世界であると同定することは本当にできるのだろうか。逆に言えば、ぼくたちはもうすでに「改良された」あとの世界にいて、それでもその世界をさらに再改良が必要だと、その必要性を言うこと(危機の固定化)を目的化して、求めているとも言えるのかもしれない。

問い3:実現されるべきビジョンと現実化するための方法を関係付ける規則とはなんだろうか

京都で遠藤くんにあったときの話題に出ていたけど、木の上に住んでいた人類の遠い祖先が、どうして他の動物たちに襲われるかもしれない危険な地上に降り立ち、身を隠す場所の少ない荒れ地の中で生活をし始めようとしたのか、という問い。その不効率と不合理を推し進めるいったいどんなビジョンと、それが実行され、実際に機能し始めるまでの方法があったのか。これは次の問いにも繋がっている。

問い4:可能性と不可能性の間の交渉、その適切な配分を定める諸実践と、アートの役割は関係するだろうか

森の縄張りからは排除され、帰る場所もなく、荒れ地を耕す術もいまだなく、危険な動物からも身を守る力もまだ持ちえていない。それでもそれをめざし続けた木を下りた人類がぼくたちの遠い祖先ならば、その不条理こそがはじまりかもしれない。不条理が芸術の実践も促したかもしれない。荒れ地でも、その地面に何かを描くことができる。そもそも芸術的な実践のはじまりは非物質的なものだったはず。それらは、残らない歌のような声の震えであり、身体の動きであり、言葉のような叫びであり、抽象的なかたちの造形であり、地面への殴り書きであり、それらは荒れ地の中で、誰の目にも触れられず、認知されず、何にも関係せず行われた。そうした行為を行ったものたちのいずれかが生き残り、その非物質的な行為の感覚だけが引き継がれている。

その意味では、木を下りるという生活改善/社会構造の変革の可能性とその社会を継続する不可能性の交渉は、そもそもわざわざ困難な場所で生活しようとする不合理なものでしかないため成り立たないと思うけど、その成り立たなさゆえに芸術的実践に近づくと思う。

アートの社会への影響は結局のところ分からないし、長期的/象徴的影響というのは、その分からなさをやんわりと言い替えているにすぎない。それはわかっている。でもリベラルな思想とその歴史の上に現在のアートが、考え方としても実践としてもあるのだとすれば、そこで目指されているものはいったいなんなのかな、って思ってしまった、というのが正直なところ。もちろん糞アート野郎なんだけど、それでも、そういうことを自省するのではなく、聞いてみたいと思ったわけ。ぼくは木を下りようとしているのではなく、木に残った人びとと木を下りた人びとの状況を観察し分析して整理している。それはアート・アクティヴィズムとも、アクティヴィズムともほど遠いけど、でも、その先も知りたい。

でもさ、そうだね、まじめすぎるかもね。ただ、どちらかといえば普通でまじめすぎるってことをずっとぼくは抑圧してきたんだよね。これが素直な感じなんだ。血みどろのスーツケースは、現場の要請を裏切るかたちで期待に応えようとした結果、偶発的に生まれたもので、だからこそ当時の自分の苦しさが保存されているという意味で大切な作品ではあるけど。ぼくはもうそうした条件反射的なやりかたには興味がなくなってしまったんだ。この往復書簡でさえも、一時期は日本のアートをめぐる言説や状況へのオルタナティブになりえないかなって思っていたこともあったけど、日本を離れているあいだに、そこで起きていることの多くがめまぐるしく変化しすぎていて、ゆっくり考えているうちに次のフェーズに入ってしまうし、そんな速さについていく必要を感じられなくなってしまった。逆にいえばそこでの人びとのいらいらや熱狂がいったい何によって生じているのかには興味がある。アートに限らず、いろんな意味で取り返しがつかない感じが眼前に広がっている感じがするし、それを見てみたいとは思う。巻き込まれつつ、距離を置きつつ。

田中功起
2015年9月 京都とローマにて

近況:東京ワンダーサイトでのイベントが10/23にあります。東京オリンピックについて率直に自由に語る会です(「一時的なスタディ:オープン・ディスカッション#3 東京オリンピック 1940 1964 2020」)。あとはローマの個展「Koki Tanaka. A Vulnerable Narrator, Deferred Rhythms」、サーペンタイン・ギャラリーで行われる「トランスフォーメーション・マラソン」、11月には「パレ・ド・キョート/現実の立てる音」にも参加します。

【今回の往復書簡ゲスト】
えんどう・みずき(インディペンデント・キュレーター)
1975年札幌市生まれ。京都市在住。国内外で数多くの展覧会を手がけ、地域におけるアートプロジェクトの企画・運営にも積極的に携わる。
2004年、九州大学比較社会文化研究学府博士後期課程満期退学。art space tetra(2004、福岡)、Future Prospects Art Space(2005、マニラ)、遊戯室(2007、水戸)などのアートスペースの設立に携わる。 2004-05年、日本財団APIフェローとしてフィリピンおよびインドネシアに滞在。05年、若手キュレーターに贈られる国際賞「Lorenzo Bonaldi Art Prize」を受賞。「シンガポールビエンナーレ2006」ネットワーキング・キュレーター。2007年、アジア文化基金フェローとして米国に滞在。同年より2010年まで茨城県が主催するアーカス・プロジェクトのディレクターを務める。2011年より「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)」代表。他に「第四回福岡アジア美術トリエンナーレ」協力キュレーター(2009)、「CREAM ヨコハマ国際映像祭2009」キュレーター、国東半島芸術祭「希望の原理」展キュレーター。
主著に『アメリカまで』(とんつーレコード、2009)、『Perfect Moment』(月曜社、2011)、『陸の果て、自己への配慮』(PUB、2013)など。
http://haps-kyoto.com/

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