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出品辞退以後

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30日のプレス発表の後、夕方のオープニングの席で、中締めということで、もともとスピーチを頼まれていたので、発言させてもらいました。そこで話したことの要旨を以下に、まとめてみました。

1)今回の僕の出品辞退そのものは、個人的な出来事ですが、こうした問題をオープンにするためにやった、ぎりぎりの判断です。
2)僕の周辺で、フェスティバルに意欲的に参加しようとしてきたさまざまな作家が、悲しいことに次々と参加を辞退してしまうのをいくつも見てきました。作品を提供する作家からすれば、その展示を実現するディレクターやキュレータとの間には緊密な信頼関係がなくてはなりませんが、それがなんともいえない雰囲気のまま裏切られてきたようです。愛の無い場所に作品は置かれたくないし、愛の無い状態では、作品を実現する気さえ起こりません。(その詳細は、いずれ公開したいと思います。知る限りですが。)
3)作家以外のお手伝いやボランティアの扱いにも問題があることも聞いていました。

 こうした問題を考えていくと以下の3点について、このフェスティバル実現のプロセスで、さまざまに議論を尽くして来なかったことが問題であると思われます。そしてなぜそれが実現されなかったのかについて、今後議論を開いていきたいと思います。他の場所で開かれている同様のイベントにとっても、また若い作家にとっても、こうしたオーガナイズの裏側の問題を公開してゆくことは非常に重要だと思っていますので、応援してください。

問題:

1)フェスティバルとは何か?
 トリエンナーレでもなく、アートフェアでもないフェスティバルとは、について、市民に窓口を開いた議論をもっとすべきだったでしょう。入場料を取るとはいえ、市民の税金が使われていますし、フェスティバルは何よりも、新しいもの、見たことの無いもの、まだ価値の定まっていないものを、みんなで見て、その評価に参加する場所だと僕は考えるからです。キュレータが価値を押し付けるといった形式ではないです。

2)市民とのインタラクションは、どうしたら可能か?
 かつてのように、例えば「美空ひばりショウ」を持ってくればいいといった、行政による市民サービスという時代は終わりました。「ありがたいアート」を見るために人が集まるという時代ではないです。何が今、映像映画という世界で問題になっているのかについて、作品を通してみんなで考えるというインタラクションが、こうした、ある意味ゆるい場所(フェスティバル)には、あると思うのです。そうした参加を通して、映像を見ることで世界が違って見えた、より良く見えたといった体験をすることが、アートが生活を豊かにしてくれるということだと考えます。

3)映画と映像の間の領域横断は、どうやったら可能か?
 横浜国際映像祭は、映画祭でもなく、現代美術展でもないお祭りであって欲しいということから、映像祭と呼ばれています。おそらくテレビやゲームなども含めた異なった領域を横断しながら、それぞれの領域で起こっている問題や新しい発見を共有するべきだと思われます。そのためにはお互いがお互いを尊敬しあえる状態を作らなくてはなりません。今回のフェスティバルには、映画やテレビ関係の展示は皆無に近いです。

 主に以上のような発言をしたことで、11月8日から14日の週あたりに、オープンなディスカッションの場を設けることを、横浜市と検討中です。決まり次第ブログに流しますの注目ください。

(フェスティバルの内部で開催すると料金を払う必要がでてしまうので、外部、エントランス部分とかでやるべきではと思っていますが、今、横浜市とも議論しているところです。)

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Fujihata Masaki

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