「メディアアートとは何か」第4回at ICC

「メディアアートとは何か」第4回を場所を変えて、新宿のICCで行います。
今回は、これまでのおさらいをするということで、記号論入門の授業を西兼志さんにお願いしました。

日時:2009年11月28日(土)午後2時より
会場:ICC 4階 特設会場
定員:200名(先着順)

入場無料

主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

共催:東京藝術大学大学院映像研究科,東京大学大学院情報学環
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2009/Opensalon25/index_j.html

文化学院で展示と講演

展示「ひみつの部屋、あるいはテレビ」
蛍光灯を使ったある種の彫刻的な作品ですが、これがまたTVディスプレイでもあります。

展示:2009年11月20日(金)~12月3日(木) 9:00~19:00
場所:文化学院・2階マルチスペース
入場無料
主催:文化学院 クリエイティブ・メディアセンター

講演があります。
日時:2009年11月20日(金)19:00~21:00
詳細は以下、。
http://bunka.gakuin.ac.jp/cmc/cafe/007.html

レポートをありがとう

 大変に面倒なレポートを丁寧に仕上げてくれた小崎さんに感謝します。
 しかし、悲しいかな、読んで理解できたことは、住友ディレクターは結局、僕が出品辞退した理由をわかってくれてはいないということでした。音に関する問題は、それが最後のトリガーだったというだけのことです。横浜市側の問題でもありません。
 世の中には、解決できる問題もあるし、解決できない問題もあるでしょう。人には、ことばにすることが難しいこともあるし、ことばにしない方が良い時だってあるでしょう。いつか時が来て、このことについて話しをすることができるとよいな、と思っています。

ディスカッションの場

 「主に以上のような発言をしたことで、11月8日から14日の週あたりに、オープンなディスカッションの場を設けることを、横浜市と検討中です。決まり次第ブログに流しますの注目ください。」
 と、11月2日の「出品辞退以後」というブログページに、書き込みましたが、ここで性急に対話を開いても、僕が提起している問題には辿り着けないと判断しましたので、僕の方で延期することを提案し、横浜市、住友ディレクターとも了承してくれました。

1)パネルに関して、外部から数人のパネリストをお招きするつもりで、日程調整をされていたようですが、この多岐にわたる問題を一瞬で把握してご意見を頂くのは、来て頂いた方々にとても負担になるし、場合によっては被害をこうむることにもなりかねない状態だと思いました。パネリストの方々に向けた情報を事前に準備すること、個々のパネリストが解釈する時間、さらに複数の方々のスケジュールの調整、またパネリスト以外にモデレータも必要だと思いました。これらのステップを、この1、2週間の間で進行させた上で開催するのは、ほとんど不可能だし、内容的にも開催中である必要はないと判断しました。

2)これは、いわば台所にいるディレクターに、僕が後ろから刀を抜いた形になっているので、これはフェアではないと考えました。フェスティバルは、まだはじまったばかりですし、この後のプログラムにいろいろ興味深いイベントが組まれているかもしれないし、まずディレクターの手腕を見せて頂いて、きちっとフェスティバルの終わりまで見届けることが、まず重要なのだと考えました。

3)ディスカッション・フォーラムは、ふたりのチャンバラを見せるのが本意ではないし、問題が個人的な感情に流されないようにするためにも、ある程度時間を取った方がいいと思われます。まずは、外部の方々の意見を伺う以前に、フェスティバルに関わっているそれぞれの立場の個々人に、このメッセージが届くことの方がたいせつで、これをきっかけにして考え、そして行動して欲しいと考えました。

このフェスティバルに関係している人も、関係のない人も、フェスティバルとはいったい誰のものなのか?アートは誰のためのものなのか?他人に作品を見せるということはどういうことなのか?といった問題を自分の問題として考え続けて欲しいと思います。

作品搬出

明日から、Simultaneous Echoesは、横浜国際映像祭会場では、見ることができません。
見たいと思っていた方々には、もうしわけないのですが、撤去作業に移ります。ご理解を、。

4日夕方に研究室のメンバーに手伝ってもらって完全に撤去しました。

展示の継続についてディレクターとも協議しました。作り手としては当然多くの人に見てもらいたいわけですから、技術的な解決ができるかできないか検討しましたが、結論はそういう技術的な問題ではなくて、それをすると「結局、藤幡さんは、ゴネただけだった。」ということになって、この行動を通して考えてもらいたいと思っていた問題が、多くの人たちとは共有されないと考えました。また、大学で教える人間としても、教育的に問題があると考えます。多くの方に残念がられていますが、抜いた刀を納める場所が見つからないというのが現実です。

自動翻訳で大失敗

以前に原文から自動的に翻訳されていた英語の文章を直そうとしていたのですが、日本語に戻ってみたら、もともとの日本語が、直した英語からさらに自動翻訳されてしまいました。まさに迷宮でした。とりあえず文章を元に戻しましたが、最初のページは削除しちゃったので、カウンターも消えたし、リンクも切れてしまいました。申し訳ない。

横浜国際映像祭出品を辞退します。(英語編集中に元のページを、、)

すみません、もとのページを、英語ページの編集中に消去してしまいました。
とりあえず、元のテキストがあったので、元に戻しました、、、が、、、。アクセスカウンターとみなさんのリンクが飛びました。(指摘があったので、簡単に文字校正しました。)


本日横浜国際映像祭のプレス発表でした。十分に見応えのある作品が並んでいるので、是非皆さん見に行ってください。十分にたのしめると思いますが、その背後に多くの作家の報われない徒労があったことなど、映像祭の実行委員のメンバーとして関係された作家にお詫びしたいと思います。
以下のようなことで、僕自身の作品展示は11月3日までとして辞退させてもらうことにしました。 以下に、14時からのプレス発表で配布した資料を以下に掲載します。(10月30日15時記)

作品展示辞退のお知らせ
「Simultaneous Eches」(響き合う音/風景)2009

横浜国際映像祭実行委員会副委員長
東京芸術大学大学院映像研究科長
出品作家
藤幡正樹

 新しい作品、優れた作品を作っていると自負する作家にとって、その価値を認め合うことのできる他者と出会うことが最大の喜びであり、まさにそのことのために作品を作っていると言わざるを得ません。まさにフェスティバルというのは、アートフェアやミュージアムの展示とはことなって、新しい価値観を問う場所であります。つまり、作家にとってフェスティバルに参加するということは、エスタブリッシュ(できあがる)することではなく、新しい可能性に挑戦することを許されたということです。また、出品にあたっては、十分な支払いがなされるべきですが、ここではお金のことは大きな問題ではありません。
むしろ、やってみたかったことを実現し、多くの人にその作品を見てもらいたいという気持ちで参加するものです。つまり、フェスティバルの参加作家にとって大切なことは、フェスティバルの企画者、ディレクターとの信頼関係なのです。しかしながら、今回のフェスティバルは、その意味で最悪であったと言わざるを得ないものであり、本来あるべき両者の信頼関係を大きく突き崩したものでした。
 参加した作家を代表して、以下個人的な問題を話しますが、他の多くの作家も同じ気持ちではないかと思います。

1)まず、展示の場所についてです。自分の作品がどのような、コンテクストの中に入れられるのかに対して敏感でない作家はいません。今回もっとも強く主張してきたことはこのことです。特に新しい技術を使った作品の場合に、おかれ方(コンテクスト)によっては、ただの技術のデモに見えてしまうからです。しかし、最後まで住友くんから納得の行く解説はありませんでした。
2)今回の作品は、音がでる作品であるために、早くから他の作品から隔離された環境であることを伝えていました。本来新港ピアで展示の予定でしたが、壁を作ることがかなり難しいという問題から、最終的にBankArtNYKになりましたが、現場に行ってみると壁が天井まで到達しておらず、音が完全に筒抜けでした。これでは自分の作品をきちっと聞いてもらうことは不可能なので、辞退したいというのが本当の気持ちです。しかし、そればかりではなく、これでは、他の作家に大きな迷惑がかかります。こうした被害を他作家達に及ぼしたくはありません。ますます、辞退したくなりました。
3)海外作家の作品のほとんどはBankArt NYKにありますが、明るいプロジェクターがずらりと並んでいる姿に驚かれると思います。片やフェスティバルの入場券ももらえないで働いているボランティアの作家やその友人がいる一方で、これはどうしたことなんでしょうか。この落差、この優遇と冷遇には目に余るものがあります。悲しくなってきました。
4)作家というのは難しい立場にいます。出品が決まって、名前が印刷された以上辞退することもままならない作家の立場は非常に弱いものです、いやでももう展示をせざるを得ません。特に若い作家のみなさんにとって、こうして与えられた展示のチャンスの大きさから、こうした不満を直接ディレクターにぶつける勇気を持つことはとても難しいものです。
5)こうした状況の中、ついになぜ自分が呼ばれているのかがわからなくなってきました。つまり、さらに悪いことに、誰もが指摘していることですが、このフェスティバルには、コンセプトが、不在です。何を見せたいのか、何を問うているのか、何をしたいのかがわからないという声があちこちから聞こえてきました。そんなフェスティバルに参加してなんの意味があるのでしょうか、さらに自分自身が、そのディレクターを選出した委員会のメンバーでもあるということは、もう自戒の念しか今はありません。参加されているみなさん、特に作家の皆さん、ほんとうに申し訳ありませんでした。ここに深くお詫び申し上げます。

 横浜市の方々へ。文化振興は、かつてのように、有名人を一時的に呼ぶなどの方法で市民へサービスをすれば良いという時代は終わりました。市民の税金を使って行う文化事業である以上は、この土地でいったいどんな文化を紡ぎだすことができるかにかかっているわけであって、市民以外の人間にとっても、参加する人間すべてが創造的な行為に情熱を持てなくてはなりません。問題は、果たしてこれで情熱を共有できたのでしょうか?ということです。
 
 最後に、この議論は、われわれフェスティバルを作り上げる立場に関わる人間の問題であり、これから来場される観賞者、参加者の方々は伺い知ることのできない背後の出来事ですので、それが闇に葬られるのではなく、今後の反省材料として、われわれが学ばなくてはならない事柄なので、あえてこのプレス発表の場所をかりて、お話させていただきました。
 
 お詫び、自作が不本意な形で展示され、さらに他の作家の作品を浸食することになることは、作家として堪え難いことですので、最後になりましたが、以上のような経緯を持って、藤幡の作品「Simultaneous Echoes」(響き合う音/風景)2009の展示を、フォーラム出演作家との関わりもあるので、フォーラム終了(11月3日)後に、撤去することといたします。
 

【翻訳:自動 原文:日】

出品辞退以後

30日のプレス発表の後、夕方のオープニングの席で、中締めということで、もともとスピーチを頼まれていたので、発言させてもらいました。そこで話したことの要旨を以下に、まとめてみました。

1)今回の僕の出品辞退そのものは、個人的な出来事ですが、こうした問題をオープンにするためにやった、ぎりぎりの判断です。
2)僕の周辺で、フェスティバルに意欲的に参加しようとしてきたさまざまな作家が、悲しいことに次々と参加を辞退してしまうのをいくつも見てきました。作品を提供する作家からすれば、その展示を実現するディレクターやキュレータとの間には緊密な信頼関係がなくてはなりませんが、それがなんともいえない雰囲気のまま裏切られてきたようです。愛の無い場所に作品は置かれたくないし、愛の無い状態では、作品を実現する気さえ起こりません。(その詳細は、いずれ公開したいと思います。知る限りですが。)
3)作家以外のお手伝いやボランティアの扱いにも問題があることも聞いていました。

 こうした問題を考えていくと以下の3点について、このフェスティバル実現のプロセスで、さまざまに議論を尽くして来なかったことが問題であると思われます。そしてなぜそれが実現されなかったのかについて、今後議論を開いていきたいと思います。他の場所で開かれている同様のイベントにとっても、また若い作家にとっても、こうしたオーガナイズの裏側の問題を公開してゆくことは非常に重要だと思っていますので、応援してください。

問題:

1)フェスティバルとは何か?
 トリエンナーレでもなく、アートフェアでもないフェスティバルとは、について、市民に窓口を開いた議論をもっとすべきだったでしょう。入場料を取るとはいえ、市民の税金が使われていますし、フェスティバルは何よりも、新しいもの、見たことの無いもの、まだ価値の定まっていないものを、みんなで見て、その評価に参加する場所だと僕は考えるからです。キュレータが価値を押し付けるといった形式ではないです。

2)市民とのインタラクションは、どうしたら可能か?
 かつてのように、例えば「美空ひばりショウ」を持ってくればいいといった、行政による市民サービスという時代は終わりました。「ありがたいアート」を見るために人が集まるという時代ではないです。何が今、映像映画という世界で問題になっているのかについて、作品を通してみんなで考えるというインタラクションが、こうした、ある意味ゆるい場所(フェスティバル)には、あると思うのです。そうした参加を通して、映像を見ることで世界が違って見えた、より良く見えたといった体験をすることが、アートが生活を豊かにしてくれるということだと考えます。

3)映画と映像の間の領域横断は、どうやったら可能か?
 横浜国際映像祭は、映画祭でもなく、現代美術展でもないお祭りであって欲しいということから、映像祭と呼ばれています。おそらくテレビやゲームなども含めた異なった領域を横断しながら、それぞれの領域で起こっている問題や新しい発見を共有するべきだと思われます。そのためにはお互いがお互いを尊敬しあえる状態を作らなくてはなりません。今回のフェスティバルには、映画やテレビ関係の展示は皆無に近いです。

 主に以上のような発言をしたことで、11月8日から14日の週あたりに、オープンなディスカッションの場を設けることを、横浜市と検討中です。決まり次第ブログに流しますの注目ください。

(フェスティバルの内部で開催すると料金を払う必要がでてしまうので、外部、エントランス部分とかでやるべきではと思っていますが、今、横浜市とも議論しているところです。)

【翻訳:自動 原文:日】

ここのところ考えていること

 新しいメディウムが、なにか新しい体験や認識を与えてくれると信じてきたんだけど、必ずしもみんながそう思ってはいないことがわかって、本当にショック。時間や経験っていうのは、その場にいっしょに居合わせていても、必ずしも共有されているものではないという、あたりまえのことに、ちょっと落ち込んでいます。どこまでも人はわかりあえないのかもしれない。ってそれが表現をはじめたきっかけなんだけど、ときどき本当に落ち込む。
 メディアアート、映像体験、インタラクティブ、そんなタームの中にいる自分が世間とは、そうとう離れた場所にいるらしい。なんでこんなにも遠くまで来てしまったのか。
 という訳で、これからのことだけど、もっともっと、考えていることを、きちっと発言していかなくてはならないのだ、と思った今日でした。乞うご期待。
(ちょっと、暗示的すぎますかね。)


1 2 次ページ


プロフィール

Fujihata Masaki

カレンダー

2010/02

1月 < > 3月

S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            

RSS

rss1.0

rss2.0

QRコード


Powered by Ga-RSS